開発に当たり、最初にJAVAを使ったブラウザ「ホットJAV
Aブラウザ」を開発したこの技術者は、1995年2月にシアト
ルのスターウェーブ社に移籍していたのです。この企業には、あ
のパトリック・ノートンが既に移っていたのです。
したがって、ペインは1995年5月からブレークスルーした
JAVAフィーバーを遠く離れたシアトルから傍観していたこと
になります。自分たちが手塩にかけて育てたオーク――JAVA
が今脚光を浴びているのに、自分はそれを遠くから眺めてしるし
かない――ペインは11月になるととても我慢できなくなり、現
在もサンに残っている友人であり、同僚であったアーサー・バン
・オフに電話をかけて、サンへの復帰を相談したのです。
バン・オフはペインの復帰を喜び、サンの人事担当者に熱心に
働きかけたのですが、話がなかなかまとまらなかったのです。サ
ンとしては、数少ない優れたJAVAの開発者であるペインには
戻ってもらいたかったものの、ペインが若い平社員としては法外
な報酬を要求しため難航したのです。
そこでペインはかねてから考えていた計画をバン・オフに打ち
明けたのです。「われわれでJAVAの会社を作らないか」――
バン・オフは賛成し、ペインの構想をサミ・シャイオに話したと
ころシャイオも賛成したのです。
その時点では、JAVAの技術者はおそらく10人程度しかい
なかったと思われますが、そのうちの最も優秀な3人が揃ったこ
とになります。これは凄いことです。しかも彼らにはJAVAの
良い点も問題点もわかりすぎるほどわかっている――これなら鬼
に金棒といえます。
しかし、いかに優秀な技術者――Aチームが揃っても企業は成
り立たない。マネジメントをするBチームが必要である。3人が
一致したのは、キム・ポレーゼーだったのです。ポレーゼーは、
かねてから会社を作りたいといっていたからです。
「4人でJAVAの会社を作りたい。CEOになってくれない
か」――3人にそう打ち明けられたポレーゼーは最初はちょっと
悩んだといいます。このときのポレーゼーの心境をロバート・リ
ードは次のように書いています。
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サンはおもしろかったからむずかしい決断だった。好きな仕事
をしていた。ジャバが好きだった。自分の一部といっていい。
しかし、会社をつくるのは高校時代からの夢であり、それから
ずいぶん長い年月がたったように感じはじめていた。また、ジ
ャバ・チームの性格が変わっていくのはわかっていた。それま
では、親みたいに監視する人はいなかった。
――キム・ポレーゼー
――ロバート・リード著/山崎洋一訳
『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
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ポレーゼーは、しばらく考えたあと、サンから身を引くのは今
しかないと3人と会社設立を決断するのです。そのとき、ポレー
ゼーは、自分が自宅近くの「カフェ・マリンバ」というレストラ
ンにいることに気がついたのです。後になってこれは奇妙な偶然
であったことにポレーゼーが気がつくことになります。
1995年のクリスマス――4人は新会社について、とくに次
の3つの点について話し合ったのです。資金と根気とエネルギー
の3つです。そして、年明け早々に実行に移すことが決まったの
です。一番重要なことは、サンと対立しないということだったの
です。亡命者ではなくサンの卒業生とみてもらうにはどうしたら
よいか――それには、サンのCEOスコット・マクニーリに打ち
明けるのがよいということが決まったのです。
ポレーゼーとバン・オフが直接マクニーリに会い、会社設立の
話を打ち明けたのです。これに対するマクニーリの態度は、いか
にもマクニーりらしいものとポレーゼーはいっています。次の3
つを守れといい、成功を祈ると激励してくれたのです。
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1.サンの人材を奪わないこと
2.サンと競争してはならない
3.サンの知的所有権を侵すな
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そして、1996年1月――キム・ポレーゼーをCEOとする
4人の会社「マリンバ」は設立されたのです。しかし、どこの企
業でもそうであるように、マリンバはレーダーにも映らないほど
の超低空飛行を続けることになります。
4人は会社を設立すると、やるべきことについてブレーン・ス
トーミングをはじめたのです。その時点のJAVAの問題点は、
デモ的なアプリケーションばかりであって、魅力的なアプリケー
ションがなかったことです。その原因として問題点を次の3つに
まとめたのです。
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1.JAVAの開発者が少ないこと
2.JAVAは超低速であったこと
3.JAVA開発ツールがないこと
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討議の結果、JAVAのアプレット構築で使う部品のライブラ
リーキットを作ろうということになったのです。いちいちプログ
ラミングすることなく、部品を組み合わせればアプレットができ
るようにしようというわけです。アイデアは良かったのです。
マリンバ社は早速プログラマを集め、開発に当たったのですが
それが完成する直前――1996年3月にネットスケープ社が、
マリンバと同じ趣旨の開発をしているネットコードという企業を
買収したことによって事実上マリンバ社としては開発を断念せざ
るを得なかったのです。かくしてマリンバ社としての最初の仕事
は失敗に終わったのです。――[日本のインターネット/55]
≪画像および関連情報≫
・米マリンバ社代表講演/2005年のインターネット社会
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インターネットは今日、かつての電話がそうであったように
我々の生活様式に変化をもたらし始めている。現状ではイン
ターネットを通じて様々なサービスが提供されるというより
も、パソコンとブラウザを使ったウエブ上のネットサーフィ
ンが主流だ。しかしながら、今後ますます、ユーザーに提供
されるサービスは「データ・情報+ソフトウエア+インター
ネット=サービス」という具合に定義される。
http://www.nikkei.co.jp/award/97award/frmkouen.html
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