2003年03月28日

●なぜ、バラード第1番を使ったのか(EJ第1074号)

 映画『戦場のピアニスト』の中で聞こえてくる音楽は、意外に
わずかです。背景的に流れる曲を除くと、たったの3曲しかない
のです。その3曲を示しておきます。
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  1.ショパン:ノクターン第20番嬰ハ短調(遺作)
  2.ショパン:バラード第1番ト短調作品23
  3.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007
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 『戦場のピアニスト』のような映画で、ポーランドのピアニス
トが弾く曲といえば、同じポーランド出身のショパンの作品以外
はあり得ないでしょう。ポーランドのピアニストがショパンを弾
くということは、一種の祖国愛の表明であり、音楽的なパスポー
トになるからです。問題は、ショパンのどの作品を取り上げるか
です。これは監督のウデの見せ所でもあります。
 ポランスキー監督は、映画の冒頭と最後に、ノクターン第20
番嬰ハ短調を持ってきています。ともにポーランド放送局のスタ
ジオでシュピルマンはこの曲を弾いています。映画の冒頭ではド
イツ軍の爆撃の中で、最後は再開されたポーランド放送局のスタ
ジオで――どちらも同じノクターン第20番嬰ハ短調です。
 実は、映画『戦場のピアニスト』の最も重要な部分――それは
シュピルマンがナチス将校のホーゼンフェルトの前で、自らがピ
アニストであることを証明するためにピアノを弾く場面ですが、
原作によると、実際にシュピルマンが弾いた曲は、ノクターン第
20番嬰ハ短調だったのです。
 原作からそのシーンを再現してみましょう。
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  食糧庫の脇の椅子に私はぐったりと座り込んだ。降って湧い
 たような罠。もはや逃れようにも、とうてい力及ばないことを
 突然悟る。夢遊病者のごとく、椅子をぎしぎしいわせながら、
 目前にいるドイツ将校をぼんやり見つめていた。しばらくして
 やっとのことで口ごもりながら言った。
 「どうぞ、お好きなように。もう動けません」
 「君をどうにかしようというつもりはない!」と将校は肩をす
 くめた。「何をして暮らしているんだね?」
 「ピアニストです」
 そう言うと、彼はまじまじと私を見つめ、疑いの目をあからさ
 まにした。彼の視線が台所から次の部屋に通じるドアのほうへ
 移る。良いアイデアが浮かんだようだ。
 「一緒に来ないか?」
 隣のダイニング・ルームとおぼしき部屋を通り、その先の部屋
 に入った。壁の前にピアノがある。将校はそれを指した。
 「何か弾いてくれないか」――ウワデイスワフ・シュピルマン
    著/伊藤泰一訳、『戦場のピアニスト』より。春秋社刊
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 ポランスキー監督は、映画ではシュピルマンに、バラード第1
番ト短調作品23を弾かせています。これは実に効果的だったと
思います。ポランスキーの見事な選曲です。
 この曲は、オクターブのフォルテで始まります。旋律は何度も
中断されます。ピアニストがペダルを離したとたんに、重ねられ
た音はばっさりと途絶え、指で押さえられた音だけが生き残るの
です。そして、この音がピアニストの指によって、新たな和音を
まとって旋律を紡ぎ、再びフォルテまで高められる――これは、
まるで、地獄のような戦場で死にもの狂いで生き延びるシュピル
マンそのものを象徴しているかのようです。
 このナチスの将校ホーゼンフェルトという人は、ピアノが弾け
るという設定になっているのです。推測ですが、彼はこの廃屋に
たびたび足を運び、ピアノを弾いていたのです。映画では、シュ
ピルマンが廃墟になったワルシャワの街をさまよっているときに
その背景に、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番作品27−
2「月光」が流れます。これは、ホーゼンフェルトが弾くピアノ
の音なのです。
 廃屋でピアノを弾く――これは異様です。そんなことをすれば
外にいるエスエス隊員に聞こえてしまうではないかとシュピルマ
ンは思ったそうです。ホーゼンフェルトは、映画では何もいいま
せんが、原作では次のようにいっています。
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  大丈夫だよ。弾いてかまわない。誰かきたら、君は食糧庫に
 隠れろ。弾いていたのは私だというから。
            ――ホーゼンフェルト(前掲書より)
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 音楽評論家の黒田恭一氏は、この映画のプログラムの中で、ノ
クターン嬰ハ短調第20番について、次のように述べています。
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  ショパンの作曲したノクターンは21曲ある。そのうちの変
 ホ長調作品9の2や嬰ヘ長調作品15−2は、きわだって人気
 があって、独立して演奏される機会もきわめて多い。しかし、
 この映画で演奏されている嬰ハ短調のノクターンは胸にしみる
 素晴らしい音楽ではあるが、必ずしも広く親しまれている有名
 な作品といいがたい。           ――黒田恭一氏
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 この評論には、いささか異論があります。というのは、嬰ハ短
調のノクターンは、広く親しまれている作品だからです。この映
画に関係なく、独立して頻繁に演奏されています。最近話題のユ
ンディ・リのアルバムにも、ショパンを弾いた高橋多佳子のCD
にもノクターンは1曲しか取り上げていないのに、嬰ハ短調のノ
クターンを取り上げているのです。
 音楽は、無言のうちに、微妙なことをさりげなく、かつ的確に
伝える力を持っているので、映画監督は、映画において音楽の力
を効果的に生かそうと努力するものです。この映画におけるポラ
ンスキーの音楽の扱いは大変見事です。
             −− [戦場のピアニスト/03]

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posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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