2015年10月19日

●「マレーシアの政治的な背景を知る」(EJ第4140号)

 マレーシアとはどういう国家なのでしょうか。今回のマレーシ
ア航空370便の失踪事故は、マレーシアの政治状況と密接に絡
んでいるとも考えられます。
 歴史を振り返る前に、現在のマレーシアの状況をチェックして
みます。2015年9月23日付の朝日新聞は、マレーシアのナ
ジブ首相について次のように報じています。
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◎汚職疑惑/米大陪審も調査/マレーシア首相国内外から追及
 公金流用疑惑が持ち上がったマレーシアのナジブ首相を追及す
る動きが国内外で強まっている。発端となったマレーシアの政府
系ファンドの捜査に複数国の司法当局が乗り出し、米大陪審も汚
職容疑でナジブ首相の親族が米国で購入した不動産の調査を始め
た。(中略)
 ナジブ氏が事実上トップを務めるマレーシアの政府系ファンド
「1MDB」から米銀を通じて約7億ドル(約850億円)が不
正に入金された疑惑も対象になっていたという。
 この問題でナジブ氏は「不正は一切ない」と疑惑を否定。ただ
入金の事実は認め、「中東の国からの政治献金だった」と釈明し
ている。       ──2015年9月23日付、朝日新聞
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 何やら現在ナジブ政権は大変なことになっているようです。こ
のナジブ・ラザク氏を後継者として指名したのは、約22年間マ
レーシアで長期政権を築いたハマティール・ビン・モハメド前首
相、その人です。
 マレーシアは、元は英国の植民地ですが、土着のマレー人と華
人(華僑系)が中心の多民族国家です。1963年に英国から独
立し、独立の父といわれるアプドゥル・ラーマン首相率いるUM
NO(統一マレー人国民組織)により、新生マレーシアは形作ら
れていったのです。
 しかし、独立後、マレーシアの貧困は一向に改善されず、19
69年5月13日に、マレー人と華人の間で流血の暴動が起きた
のです。これをきっかけにして、ラーマン首相の政策を批判し、
一躍政治の世界に登場したのがハマティール氏なのです。彼はU
MNOを通じて政治活動を始めます。
 1969年6月17日にハマティール氏は4枚の私信をラーマ
ン首相に送り、総選挙の敗北と5月13日事件の責任をとって退
陣するよう迫ったのです。ところが、ラーマン首相はこの私信を
公開したことによって、アブドゥル・ラザク副首相はUMNOの
最高評議会を招集し、政権を守るためマハティール氏をUMNO
から追放したのです。
 しかし、マハティール氏は、あきらめなかったのです。マレー
人が貧困から抜け出せないのは、マレー人゛華人に対して経済的
に劣っているからであり、その理由とそこから抜け出す方法を論
じた次の著書を上梓したのです。
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          マハティール・ビン・モハメド著
     『マレー・ジレンマ』/The Malay Dilemma
               高多理吉訳/勁草書房
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 この本は、痛烈なラーマン政権批判であったために、国内では
発禁処分になります。しかし、隣国のシンガポールでは買うこと
ができたので、多くのマレー人がこの本を読み、マレーシア国内
ではマハティール擁立の機運が高まります。
 1972年、マレーシア氏は第2代首相になっていたラザク首
相と和解し、UMNOに復帰を果たすのです。そして、1981
年にマハティール氏はマレーシアの首相に就任します。
 マハティール首相は、直ちに『マレー・ジレンマ』によって発
表された政策──ブミプトラ政策を実行に移します。ブミプトラ
とは、「土着の民」という意味であり、マレー人の政治・経済面
での権利を向上させる政策です。
 このブミプトラ政策によって、マレー人の経済的地位は着実に
向上したのです。マハティール政権が発足してから約10年後の
1990年に、マレー人は華人の経済的ポジションとあまり変わ
らなくなり、なかには華人を追い越すようになったのです。
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               マレー人     華人
       製造業就業者   46%    38%
      都市人口の割合   41%    39%
   首都でのテレビ普及率   89%    88%
   首都での冷蔵庫普及率   80%    82%
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 マレーシアは、1980年代には工業国への転換を果たし、現
在は世界有数のIT先進国化を果しつつあります。これについて
長江弘氏は、次のように書いています。
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 その代表的なものとして、クアラルンプール周辺地域に建設さ
れた、最新のITインフラが整備された総合開発地域マルチメデ
ィア・スーパーコリドーがある。ここには、首相官邸や各省庁舎
が立ち並ぶ行政都市プトラジャヤや、新国際空港(KLIA)、
それに新空港に隣接しF1も開催されるセパンサーキットなども
ある。加えて、国民車構想によって、三菱自動車の技術で製造さ
れたプロトンという国産車をはじめ、港湾、鉄道などの交通イン
フラの充実も進み、一定の成果を挙げている。  ──杉江弘著
      『マレーシア航空機はなぜ消えた』より/講談社刊
─────────────────────────────
 このようにしてマレーシアは経済発展し、ブミプトラ政策によ
り、マレー人の経済的ポジションは向上したものの、その恩恵を
受けないグループが生じ、マハティール政策に公然と反発する反
マハティール勢力も出てきたのです。
           ──[航空機事故の謎を探る/015]

≪画像および関連情報≫
 ●マレーシアの歴史/ブミプトラ政策
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   独立時のマレー半島は、大きな経済的利点を持っていまし
  た。それは3つの価値のある商品”ゴム、スズ、パームオイ
  ル”の世界有数の生産国であり、また、重要な鉄鉱石生産国
  でもありました。これらの輸出産業は、マレー政府に産業発
  展とインフラ・プロジェクトに投資するのに健全な剰余金を
  与えました。
   1950年代と60年代の他の開発途上国と同様に、マラ
  ヤ(後にマレーシア)は、UMNOが社会党ではなかったも
  のの、国家計画に大きな重点を置きました。
   第一次および第二次マレー計画(それぞれ1956〜60
  と1916〜65)は、産業への国家投資や、戦争中や非常
  時に破損し見過ごされてきた道路や港湾などのインフラの修
  復を通じた経済成長を刺激しました。政府は国家を価格変動
  の運に委ねる商品輸出へのマラヤの依存度を減らすことを切
  望していました。
   政府はまた、天然ゴムの需要は合成ゴムの生産と使用が拡
  大するにつれて落ちざるをえないことを認識していました。
  マレー人労働力の3分の1がゴム産業で働いていたので、雇
  用の代替ソースを発展させることが重要でした。マラヤのゴ
  ム市場の競争は、ゴム産業の収益性が賃金を低く抑えること
  にますます依存していることを意味し、それは農村部のマレ
  ー人の貧困を永続させました。   http://bit.ly/1Py3Jze
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マハティール氏.jpg
マハティール氏
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 航空機事故の謎を探る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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