2007年05月24日

●JAVAワールド化したサン・ワールド(EJ第2086号)

 サン・マイクロシステムズにとってこの段階でしなければなら
ないことは、顧客の獲得です。ここで顧客とは、JAVAを製品
に組み込みたいと希望する企業を意味します。そういう企業に売
り込んでライセンスを供与し、ライセンス料をもらうこと――こ
れが唯一収入を確保する方法なのです。なぜなら、ほとんどのユ
ーザには無料で提供するからです。
 1995年春の時点でサンにとって一番有力な顧客は、ネット
スケープ・コミュニケーションズ社だったのです。1995年4
月の時点で最も普及しているブラウザは、ネットスケープ・ナビ
ゲータであったからです。
 シュミットをはじめとするサンの経営陣は、何度かジム・クラ
ークに会い、JAVAチーム全体を売ることも話し合っていたよ
うですが、さすがにこれが実現することはなかったのです。しか
し、サンの5月の発表会までにナビゲータにJAVAを統合する
ことについては、可能性が出てきていたのです。
 なぜなら、技術面についてはアンドリーセンはOKを出してお
り、後の交渉は条件面だけだったからです。価格は公表されませ
んでしたが、ネットスケープ社はJAVAを組み込む権利を75
万ドルで購入したとされています。これは、ネットスケープ社に
とってけっして高い買い物ではなかったはずです。サンとしては
ネットスケープ社が採用すれば、他からもライセンスの依頼がく
るはずと考えたのです。
 ポレーゼーとしては、5月のサン・ワールドでアンドリーセン
に講演をしてもらいたいと考えていたのです。アンドリーセンと
交渉を重ねた結果、彼は演壇に上がることを承知したのです。こ
れによって、当初サン・ワールドにおいて5分程度しか予定して
いなかったJAVAの発表はアンドリーセンの発表が中心になる
ため、JAVAの発表会場は中央ステージに移り、これがこの会
議の最重要イベントになったのです。
 発表は大成功だったのです。サンフランシスコのモスコーン会
議センターに詰めかけた数千人の聴衆はまるではじめてテレビを
見るような反応でデモを見たのです。本当にテレビのようにタレ
ントがページの中から手を振ったり、宙返りをしたりする――ク
ロスワード・パズルやハングマン・ゲーム、株価の動きを示す株
式ポートフォリオなど、盛りだくさんのデモンストレーションで
あったのです。
 参加者は何の関係もないブースでJAVAについて質問を連発
し、担当者を困惑させたといいます。とにかく1995年のサン
・ワールドは、JAVAワールドになってしまったのです。
 この日を境にJAVAは日陰の存在ではなく、マスコミの報道
によって世界中にその名は広がったのです。ニューズウィークや
タイムなどの大衆誌をはじめ大手のテレビ局も取材に訪れ、ポレ
ーゼーは文字通りてんてこ舞いの忙しさになったのです。
 マスコミによるJAVAについての各種報道のなかで、きわめ
てユニークな記事は、1995年8月にフォーブス誌の技術欄に
載った米国の経済学者ジョージ・ギルダーのレポートです。ちな
みにギルダーは、次の「ギルダーの法則」という通信網の法則に
よって有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      通信網の帯域幅は6ヶ月で2倍になる
―――――――――――――――――――――――――――――
 ギルダーは、技術界のトレンドを読み取る鋭い分析力と予知力
を有する学者で、シリコンバレーの技術者からはつねに注目を浴
びる存在なのです。そのギルダーは、JAVAについて次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジャバや同様の言語が広まれば、ソフトははじめて、ほんとう
 にオープンなものになる。マイクロソフトのOSは汎用品にな
 り、インテルのマイクロプロセッサは周辺機器になる。
                  ――ジョージ・ギルダー
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この記事が発表されると、サンの株価が上がり始めたのです。
さらにジャバに対応すると発表した企業の株価まで上昇したので
す。ブラウザ・メーカーのスパイグラス、マクロメディア、開発
ツール・メーカーのボーランドの株価は、ライセンス契約を発表
する前日より翌日の株価が跳ね上がったのです。これによって、
サンは1995年末までに、十数件のライセンス契約を獲得する
ことに成功したのです。
 1996年の前半になると、ライセンス契約は3倍以上になり
主だったブラウザメーカーのほとんどすべてが契約したことに加
えて、マイクロソフトをはじめとするOSメーカーも契約を結ん
だので、コンピュータ業界全体にJAVAが広がることは確実に
なったのです。
 それにしてもこの成功には、「ジャバ」という名前が大きく貢
献していると思われます。JAVAは一見技術用語ではないよう
に見えます。大衆受けするし、楽しい、エネルギッシュな名前で
す。ワープロ・ソフトを売り込むときに「C++を使っている」
と宣伝する人はいないが、「これにはJAVAが使われている」
ということには抵抗がないのです。
 1995年9月にナビゲータ2.0のベータ版(正式版は19
96年1月)がリリースされたのですが、UNIX版とウインド
ウズ95版でJAVAに対応していたのです。ナビゲータのプロ
ダクト・マネージャの話によると、1995年末には7800万
人のナビゲータ・ユーザがJAVAユーザになったそうです。
 そして、もはやJAVAは、ブラウザには当然プラグインされ
ているということが常識化したのです。
 しかし、既に述べたように、この時点でマイクロソフト社は反
撃に出てきます。―― [インターネットの歴史 Part2/52]


≪画像および関連情報≫
 ・ジョージ・ギルダーの関連サイトから
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1998年9月、「帯域の爆発」と題してネバダ州の避暑地
  タホー湖で開かれた「ギルダー・テレコズム会議」は異様な
  熱気に包まれていた。大きな身振りで「無限の帯域が実現し
  資本主義の黄金時代が始まる」という著者の神がかり的な預
  言に、観衆は割れるような拍手をもって応えた。
     http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Gilder.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 05:12| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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