2015年09月25日

●「北里への執拗で陰湿なバッシング」(EJ第4125号)

 どこの国の官僚もそうかもしれませんが、日本の官僚は自分の
やったことに対して絶対にミスを認めないといわれます。役所は
減点主義であり、ミスを認めればそれだけ出世が遅れてしまうか
らです。それに、森林太郎(森鴎外)にも責任の一端は十分あり
ます。彼は脚気菌はないとする北里柴三郎を批判する論文を書い
ているからです。
 脚気の予防には、海軍においては麦飯を兵食にすればよいとい
う結果が出ていたにもかかわらず、陸軍は脚気菌の存在にこだわ
り、あえて麦飯を採用せず、白米を兵食にした結果、日清戦争の
戦死者の9倍の脚気による死亡者を出し、戦争には勝利したもの
の、日本軍に多大の損害を与えたのです。
 それでも高木兼寛軍医や森林太郎は、北里らの主張することは
学理的根拠がないとしていっさい誤りを認めず、謝罪しなかった
のです。それでも彼らは東京大学医学部という鉄壁のバリアに守
られていたので、彼らに対して責任を問う声は上がらなかったと
いいます。その北里も東京大学医学部の出身なのです。
 しかし、東京大学医学部は北里を「忘恩の徒」として糾弾し、
北里が国内で事実上研究を続けることができないようにしようと
したのです。このままでは北里は国外に去ることを恐れた内務省
は、国立感染症研究所の設立計画を何回も閣議に提出したのです
が、すべて廃案にされてしまったのです。
 そこで内務省の幹部は、OBを介して福沢諭吉に助けを求めた
のです。福沢は、優れた学者を擁しながら無為に置くのは国家の
恥であるとし、芝公園の自分の所有地を提供し、私財を投じて研
究所を設立します。1892年の暮れのことです。これが日本初
の「伝染病研究所」です。このようにして民間資本で発足した日
本の伝染病研究所は、やがてドイツのコッホ研究所、フランスの
パスツール研究所と並んで、世界3大研究所のひとつと称される
までになるのです。1899年、伝染病研究所は、内務省の所管
になります。しかし、その設立には、このようないきさつがあっ
たことを知る人は少ないと思います。
 1894年に香港でペストが流行し、欧米各国はその原因菌の
発見に全力を上げていたのです。北里も、内務省から香港に派遣
されたのですが、香港到着2日後に早くもペスト菌を発見し、世
界中を驚かせています。これは英国の雑誌に論文として発表され
たのですが、コッホ研究所の追試でも確認され、北里は世界中の
称賛を浴びたのです。
 ところが、日本での評価は正反対だったのです。北里の発見し
たのはペスト菌ではないと非難する論文が十分な科学的裏付けも
なしに次々と発表されたからです。そのなかには、森林太郎の論
文もあったといいます。
 1901年、科学界のビッグイベントであるノーベル賞が発足
し、第1回のノーベル医学生理学賞を獲得したのはコッホの弟子
であるベーリングで、受賞理由は「ジフテリア血清療法の開発」
だったのです。
 血清療法は、医学に革命をもたらした治療法であり、ノーベル
賞の受賞は当然ですが、そもそも血清療法は北里がコッホ研究所
において破傷風菌について既に開発しており、ベーリングの研究
は、その二番煎じに過ぎなかったのです。
 しかし、ベーリングにはドイツの国を上げての支援があったの
に対し、北里は国を上げて足を引っ張られていたという決定的な
違いがあったのです。このようにして、日本はむざむざノーベル
賞の最初のページに、日本人の名前を記すという栄誉を自らの手
で潰してしまったのです。
 これほど国益を損うことをしながらも東京大学医学部は、北里
柴三郎を許さなかったのです。それは北里が世界的に認められる
業績を上げれば上げるほど、ひどくなっていったのです。執念深
さというか、陰湿な嫌がらせというか、根深い嫉妬というか、そ
こまでやるかという空恐ろしささえ覚えます。そういうものが日
本の医学、生理、生物学界にはあるのです。
 1914年、政府は、所長の北里には何の相談もなく、突然伝
染病研究所を内務省の所管から文部省の所管に移し、東京大学の
下部組織にすると発表したのです。これは、東京大学によって伝
染病研究所が乗っ取られたことを意味します。
 この扱いに激怒した北里以下、所員全員は辞表を叩きつけて伝
染病研究所を去ったのです。その後、北里は北里大学を創立した
り、慶應義塾大学医学部の初代学部長に就任するなど活躍を続け
1931年に78歳で亡くなりました。北里が取れなかったノー
ベル医学生理学賞を日本人がようやく受賞するのは、北里の死後
56年後の1987年だったのです。
 現在、北里柴三郎について調べると、表の文書に関しては、こ
こで述べた裏側の事情については、いっさい伏せられており、日
本の細菌学の父として紹介されているだけです。これほどのバッ
シングにもかかわらず、これだけ数多くの業績を遺したのですか
ら、北里柴三郎は偉人といえます。
 今後の小保方氏について、ベンジャミン・フルフォード氏は、
米軍から勧誘されるのではないかと述べています。具体的には、
DARPA(国防高等研究計画局)への勧誘です。常温核融合の
マーティン・フライシュマンとスタンレーポンズがいるとされる
研究機関です。この常温核融合技術は既に完成し、実用化されて
いるとされています。
 小保方氏には、研究室とともに潤沢の研究資金が提供され、S
TAP細胞研究の継続を保証するという条件で勧誘される可能性
は十分あります。既にSTAP細胞の国際特許は、チャールズ・
バカンティ氏に移っており、理研とは縁が切れています。
 STAP細胞は、再生医療の分野はもちろんのこと、人間の老
化現象を遅らせ、細胞を若返らせる可能性を秘めています。実用
化が進めば、さまざまなことに活用できる夢の技術です。日本は
この貴重な技術を寄ってたかって潰してしまったのです。もった
いないことです。 ── [STAP細胞事件/098/最終回]

≪画像および関連情報≫
 ●STAP細胞が不老不死が現実に
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   STAP細胞は、この100年、医療業界が築き上げてき
  た「老化ビジネス」を根本からくつがえす可能性を持ってい
  る。なぜならその「老化」を治すのが、STAP細胞最大の
  「薬効」だからである。
   STAP細胞は、切断された腕を再生医療で生やすという
  程度のものではない。STAP細胞がもたらす「夢の技術」
  とは、「老化の治療」なのだ。老化とは、体細胞が分裂する
  際、ある一定の割合で起こる複製エラーで細胞数が減る現象
  をいう。30代のとき60兆個あった細胞は、80代を超え
  ころには40兆個近くまで減る。当然、あらゆる機能が低下
  し、健康に支障をきたす。
   さて、STAP細胞は「万能細胞」なので、活動を休止し
  ている幹細胞を復活させることができる。つまり、20兆個
  減った細胞を、STAP細胞でもとの60兆個まで戻すこと
  が可能なのだ。よぼよぼの80代のおじいさん、おばあさん
  が、20代、30代の「若さ」を復活させることができるの
  だ。たとえ胃ガンになつて胃を全摘したとしても、STAP
  細胞で胃を再建すれば新品の胃にとり換えることができる。
  脳細胞が減って認知症になりかけても、脳内にSTAP細胞
  を注射してやれば脳細胞がもとの数に戻って症状は治まる。
  もしSTAP細胞が完全に実用化されたら、年に数回、ST
  AP注射を打つだけで、ほぼ永遠に「若さ」を維持できるこ
  とになる。      ──ベンジャミン・フルフォード著
   『闇の支配者に握り潰された世界を救う技術』【現代編】
                    イースト・プレス刊
  ───────────────────────────

伝染病研究所(芝公園).jpg
伝染病研究所(芝公園)


posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | STAP細胞事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
真実であるならどんなバッシングを受けようとも揺るぎがなく残っていくはずです。むしろバッシングを歓迎するでしょうね。
Posted by 通行人 at 2015年09月25日 14:16
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