2015年09月24日

●「北里柴三郎と森鴎外と脚気の関係」(EJ第4124号)

 現在では、日本の細菌学の父といわれる北里柴三郎が「明治時
代の小保方晴子」的バッシングを受けていたことを知る人は少な
いと思います。それもごくつまらないメンツや誤解による嫌がら
せが原因なのです。今回のテーマの最後として、北里柴三郎にま
つわる出来事をご紹介することにします。
 北里柴三郎はなぜバッシングを受けたのでしょうか。その最大
の原因は「脚気」をめぐる騒動にあるのです。それにあの文豪の
森鴎外もこれに深く関係しています。
 「脚気」とは、ビタミンB1の不足によって起こる病気で、現
在ではなんら重病ではありませんが、かつて日本では国民病とい
われたのです。脚気にかかると、倦怠感や手足のしびれ、むくみ
などから始まり、ひどくなると、末梢神経の麻痺や心臓衰弱で死
にいたる恐ろしい病気だったのです。
 当時日本の陸海軍では、多くの兵士が脚気にかかって死亡する
という事態が起こり、その対策に軍は頭を悩ませていたのです。
当時軍隊全体では26%の兵士が脚気になり、その死亡率は陸軍
で22%、海軍では5%であり、このような脚気の蔓延は、軍隊
にとって重大問題だったのです。
 当時日本の医学は全般的にドイツ医学をその範としていたので
陸軍はドイツ軍隊を手本としたのに対し、海軍は英国海軍から兵
食を含む軍事全般を学んでいました。しかし、米を食べない欧米
人からは発症しない脚気という病気に関しては、欧米の医学にそ
のその知見はまったくなかったのです。
 海軍でこの脚気対策に当たったのは、海軍省軍医の高木兼寛で
す。高木は英国に留学して臨床を重視する英国風の医学知識を身
につけており、海軍ではどの階層の者が脚気にかかっているかを
調べています。その結果、階級が下の水兵に最も多く、下士官に
なると若干少なくなり、将校にはいないことが判明します。これ
によって、高木は脚気は兵食に起因すると考えたのです。
 しかし、欧米風の兵食にすると設備などの面でコストがかかる
などの問題があったものの、最終的に高木は米を使いながら、そ
こに欧米風の料理の試験導入を繰り返しながら、カレーを導入す
るのです。これが有名な「海軍カレー」です。そして以後海軍は
白米は出さず、麦飯を兵食とし、脚気を克服しています。
 これに対して陸軍の責任者は軍医本部次長の石黒忠悳という人
物です。ドイツ医学は学理医学が中心であり、英国医学とは大き
く異なります。石黒は海軍の兵食改善路線を批判し、あくまで米
食にこだわり、ちょうどそのとき大学を卒業して入局してきた若
手医師をドイツに留学させ、研究を命じたのです。この若手医師
の名前は森林太郎──後に文豪といわれる森鴎外です。
 しかし、森林太郎は栄養学的知見や日本の食糧事情をもとに日
本の兵食を論じた報告書を出したものの、脚気については次の記
述をもって逃げたのです。
─────────────────────────────
     米食と脚気の関係有無は、余敢えて説かず
  ──「鴎外は卑怯だったか/軍医森林太郎と脚気」
               http://bit.ly/1F7XcsH
─────────────────────────────
 1885年になって日本で画期的な発見が発表されます。脚気
を引き起こす「脚気菌」の発見です。発見したのは、ベルリン大
学のコッホの高弟、レフレルに学んで帰国した緒方正規です。緒
方は、この功績によって時の帝国大学医学部(以下、東京大学医
学部と表記)で日本ではじめての細菌学の教授に就任します。
 その緒方の下に助手として入ったのが北里柴三郎なのです。ち
なみに、北里柴三郎は森林太郎と同じ東京大学医学部の出身です
が、北里は森よりも10歳年上です。そして、北里は緒方の紹介
でドイツ・ベルリン大学のコッホ研究室に留学することになるの
です。そして、破傷風菌の純粋培養に成功するなど、大活躍しま
すが、そのかたわら緒方の発見した脚気菌について、次の趣旨の
論文を日本の学術誌に投稿しています。
─────────────────────────────
 脚気菌は細菌学の厳密な手続きを経たものではなく、その存
 在は追試では確かめられない。      ──北里柴三郎
─────────────────────────────
 この北里の論文に東京大学医学部は騒然となります。「北里は
師に弓を引いた。師に逆らうのは忘恩の徒である」と非難をした
のです。このことがあったため、北里が数々の成果を上げてドイ
ツから帰国したとき、東京大学医学部は「反北里」の姿勢を鮮明
にしたのです。
 しかし、北里は間違っているものを間違いであると指摘しただ
けです。それは、相手が師であろうとなかろうと関係はないはず
です。人命に関わる話であり、もし、原因が菌でなければ、予防
法や治療法が違ってくるからです。
 高木兼寛軍医の海軍の兵食改革によって、1892年頃にはこ
と海軍に関する限り、脚気で死ぬ兵士は激減したのです。しかし
こういう事実を突きつけてもドイツ医学を信奉する陸軍医務局長
の石黒忠悳は、あくまで海軍の兵食改善に反対したのです。麦飯
が脚気に効くという学理が不明であるという理由からです。この
意見をサポートしたのは森林太郎です。
 そのようにして、1894年に日本は日清戦争に突入するので
す。しかし、石黒は麦飯を兵食に使わなかったのです。しかし、
それは惨憺たる失敗に終わったのです。
 日清戦争時の陸軍の脚気の患者数は4万1431名、死亡者数
4064名に達しています。日清戦争の戦死者数は453名であ
るので、実に9倍以上の兵士が脚気によって死亡していたことに
なります。これほどの明白な失敗はないにもかかわらず、陸軍は
学問的に根拠はないとして麦飯の採用を認めず、反省もしなかっ
たといいます。そして、北里も当時日本の医療の全般を握ってい
た東京大学医学部からは完全な締め出しを食うのです。
             ── [STAP細胞事件/097]

≪画像および関連情報≫
 ●脚気と日露戦争と森林太郎
  ───────────────────────────
   森林太郎は明治三十五年、九州小倉の第十二師団の軍医部
  長から、第一師団の軍医部長に転任することになり、再び東
  京に帰ってくる。明治37年2月、日露戦争が始まった。戦
  争が始まると、陸軍医務局長の小池正直が全軍の衛生問題・
  兵食問題を統括することになった。ところが、麦飯と脚気の
  〈原因的関係〉を認めたはずの小池だったが、兵食は米食と
  なった。日露戦争後、責任を問われた陸軍医務局の田村俊次
  は、挽き割り麦は虫が付きやすく、輸送上困難だったため、
  37年4月までは一粒の麦も送らなかったと弁明しているが
  その真相はよくわからない。(中略)
   その結果、日露戦争での脚気患者数は25万人、脚気によ
  る死者は27800余名という大変な事態になった。一方、
  海軍はほとんど脚気患者を出すことはなかった。高木兼寛の
  麦飯の脚気予防効果の根拠は、当時の栄養学の知識をもって
  しても誤っていたのだが、麦飯が脚気に現実に有効であるこ
  とは、論理の正しさとは別に証明されたといえよう。
  特に海軍の側から、陸軍は厳しい批判にさらされることにな
  る。森林太郎が小池正直の跡を継いで医務局長に就任したの
  はその時期だった。──「鴎外は卑怯だったか/軍医森林太
  郎と脚気」より          http://bit.ly/1F7XcsH
  ───────────────────────────

森林太郎/北里柴三郎.jpg
森 林太郎/北里 柴三郎
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | STAP細胞事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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