なかったのか」について3つ上げましたが、「3」についてはま
だ述べておりませんので、「3」を再現します。
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3.STAP細胞の研究を認めると、iPS細胞は影が薄く
なり、その世界的利権を失う可能性が高い。
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もし仮にSTAP細胞が、何らかの勢力によって抹殺されたの
だとすれば、なぜiPS細胞は許されるのかという議論をよく聞
きます。それについての答えは明白です。iPS細胞は「夢の再
生医療」といわれていますが、多くの問題があり、それによって
現代の医療体制を大きく変革する力はないからです。
iPS細胞の問題点については既に述べていますが、舩瀬俊介
氏は、次の6つの問題点を上げています。
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1.導入ウイルスで感染症
2.ガン抑制遺伝子を妨害
3.ウイルスによるガン化
4.発ガン系遺伝子を刺激
5.ガン防止ブレーキ破壊
6.超低効率、超高コスト
──船瀬俊介著/『STAP細胞の正体/「再生医療は幻想だ」
復活!千島・森下学説』/花伝社刊
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これらの問題点について個々に述べることは、繰り返しになる
し、紙面もないのでやりませんが、要するに、遺伝子操作をしな
ければならないiPS細胞と、それをする必要のないSTAP細
胞ではその使い勝手は比較にならず、もしSTAP細胞の研究が
進めば、iPS細胞の影は薄くなり、やがて消えてしまう運命に
あるといえます。そうすればこの利権は泡となって消えます。
ルネ・カントン、山極勝三郎、千島喜久男、ルイ・ケルヴラン
ロバート・メンデルソン、そして小保方晴子──これらの人々は
真に人類の役に立つ研究に貢献した人たちであるといえます。し
かし、ここまで見てきたように、いずれも自分たちの事業の既得
権益を冒すとして、その研究成果が闇の勢力によって葬り去られ
た人々であるといえます。しかもそれはけっしてレアケースでは
ないのです。
フランスのパスツールとドイツのコッホといえば、「近代細菌
学」の権威として知られています。彼らは人類のために貢献した
ように見えますが、実は違うのです。ベンジャミン・フルフォー
ド氏は、次のようにコッホとパスツールを批判しています。
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コッホとパスツールたちがつくり出した「近代細菌学」は、ワ
インの品評会で産地と年代を当てるゲームのように、「この病気
はこの菌でした」という“菌当て競争”ばかりやっていて、肝心
の治療法にはまったく無関心だったからだ。
──ベンジャミン・フルフォード著/イースト・プレス刊
『闇の支配者に握り潰された世界を救う技術』【現代編】
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その治療法を確立したのは誰でしょうか。
それは、1885年に東洋の島国からコッホのいるベルリン大
学に留学生としてやってきた33歳の若者だったのです。その名
は北里柴三郎──そうです。「日本の細菌学の父」といわれるあ
の北里柴三郎(1853〜1931)です。
北里は、コッホから「破傷風菌の治療法」の研究を命じられた
のです。破傷風という病気は、傷口から入り込んだ破傷風菌の出
す毒素によって起こる病気で、全身の筋収縮、つまり、全身「足
がつった」状態となり激烈な痛みに苦しみながら死んでいく当時
の難病です。その治療法はなく、パスツールの開発した「予防接
種」によって防ぐしかなかったのです。
当時破傷風菌は、「他の菌との共生によってのみ生存可能」と
されており、その純粋培養は困難だと思われていたのです。そこ
でコッホは、絶対にできないだろうという前提で北里に治療法の
研究を命じたのです。
ところが北里は、ごくスタンダードな方法で、2年ちょっとで
その治療法を完成させたのです。破傷風菌の出す毒素を薄めなが
ら、投与して耐性をつけさせ、その血液から血清を取り出すこと
に成功したのです。毒というものは、少量ずつ与えれば、耐性が
ついて、致死量を超えても死ななくなるなどということは、細菌
学を志す者であれば誰でも知っているはずの知識です。北里はそ
れをやったに過ぎないのです。
しかし、コッホとしては、東洋の未開人に何ができると思って
超困難だと思われる課題を与えたつもりだったのですが、あっさ
りとクリアされ、メンツを潰されてしまったのです。そしてその
腹いせに当時「ベルリン大学日本総督府」といわれた旧東京帝国
大学医学部(現在の東京大学医学部)に何らかの圧力を加えてい
るのです。
しかし、北里の業績に感激した英国は、細菌研究所を設立して
北里を所長に招聘しようとしたり、米国は高額の報酬を条件に大
学教授として迎えようとしたのですが、北里は科学後進国の日本
の科学推進のため、すべてを断って帰国したのです。そのさい、
ドイツ皇帝は明治天皇に感謝のメッセージを送り、北里にはドイ
ツ人しか与えない「大博士」の称号を贈ったのです。
しかし、帰国後待っていた北里はひどい目に遭うのです。前に
所属していた内務省からは追い出され、東京大学も北里の受け入
れを拒否し、徹底して北里潰しを行い、医学界から追放しようと
さえしたのです。さらに北里が設立していた伝染病研究所も解体
されてしまいます。まさに「明治時代の小保方晴子」になってし
まったのです。これにはベルリン大学からの嫌がらせともう一つ
理由があったのです。 ── [STAP細胞事件/096]
≪画像および関連情報≫
●福沢先生と北里柴三郎/慶応義塾豆百科/50
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人の一生にとって、ある出会いがその人の生涯を決めること
がある。北里柴三郎の場合も、福澤先生と出会ったことが、
彼の人生行路を決定づける上で、大きな役割を果たしたこと
は否み得ない。北里は熊本の人で東京医学校を卒えるや内務
省衛生局に入り、当時の局長長与専斎の知遇を得、明治18
年ドイツに留学、コッホに師事して細菌学を学び、破傷風菌
の純粋培養と血清療法を発見するなど、数多くのすぐれた研
究成果を挙げ、明治25年に帰朝した。当時の日本は衛生状
態もきわめて悪く、各種の伝染病が流行していた。北里は1
日も早く伝染病研究所を設立することの急務を説いたが、そ
こには多くの困難があった。北里の終始変わらぬ庇護者であ
った長与はこうした北里の窮状を福澤先生に打ち明けその援
助を求めたのである。先生にとって長与は緒方塾以来の親友
であり、かつ北里の業績にもかねてから注目していただけに
早速同年10月4日付の時事新報に「医術の新発見」と題す
る社説を掲げて彼の業績を紹介するとともに、知友の実業家
森村市左衛門と協力して芝公園の御成門脇に研究所を建て、
北里の使用に供したのであった。伝染病研究所としてはわが
国嚆矢のものである。この研究所はその後大日本私立衛生会
の所管となり、場所も芝愛宕下に移ったが、その時も地域住
民の激しい反対に対し、先生は時事新報紙上で情理を尽くし
て説得に当ったことも北里には忘れられ得ぬ感銘であった。
http://bit.ly/1FGknFc
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北里 柴三郎博士