2005年06月10日

日本でのヒットが生まれるまで(EJ1610号)

 テレサ・テンがはじめて日本に来たのは、1973年11月の
ことです。年齢は20歳だったのです。テレサ・テンの日本での
活動は、営業を渡辺プロ、レコーディングはポリドールで行うこ
とになったのですが、彼女のデビュー曲をどのような曲にするか
は大問題だったのです。テレサ・テンの担当マネージャーは桜井
五郎氏(以下、敬称略)――いしだあゆみやアン・ルイス、大信
田礼子などを束ねる腕利きのマネージャーだったのです。
 いろいろ検討が行われた結果、アイドル路線で、ポップス調の
曲でいくことに決まったのです。当時は小柳ルミ子の「私の城下
町」や天地真理の「水色の恋」がヒットしており、ポップス調の
曲が流行していたからです。そのため、テレサ・テンの実際の歳
を1歳ごまかし、19歳でいくことにしたのです。つまり、ター
ゲットを10代に絞ったのです。
 ところで、テレサ・テンのデビュー曲をご存知でしょうか。ほ
とんどの人は知らないと思います。なぜなら、レコードはぜんぜ
ん売れず、売り出しは失敗に終わったからです。
 デビュー曲は、山上路夫と筒美京平の最強コンビによる次の曲
だったのです。
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       『今夜かしら明日かしら』
       作詞/山上路夫 作曲/筒美京平
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 渡辺プロのことですから、キャンペーンは相当力を入れている
のです。45回にわたるテレビ出演、それに加えて日劇での森進
一ショーでも歌う機会を作ったのですが、レコードはほとんど売
れず、オリコンチャートは第75位に終わったのです。
 実は日本ポリドールの舟木制作部長がテレサ・テンと契約をす
るために香港に行ったとき、香港ポリドールはテレサ・テンでは
なく、歌も女優もできる優雅(ユウヤ)というタレントではどう
かと提案したそうです。しかし、舟木氏はあくまでテレサ・テン
にこだわったのです。
 しかし、そのユウヤは既に日本でデビューしており、「処女航
海」というレコードも出していたのですが、このレコードはオリ
コンチャート第24位――テレサ・テンの惨敗だったのです。
 なぜ、売れなかったのか――桜井マネージャーはさんざん考え
た結果、原因は次の2つにあると考えたのです。
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   1.日本語に問題があり、情感が伝わらない
   2.アイドル路線にしたのが裏目に出たこと
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 テレサ・テンにとって日本語の修得は大きな壁だったのです。
まして来日直後は日本語をまったく話せず、これが情感を伝える
ことの障壁になっていたことは確かです。それにはっきりしてい
ることはアイドル路線をとって10代のファンからそっぽを向か
れたことです。
 むしろポップス路線よりも演歌の方がいいのではないか――桜
井はふとそう考えたのです。それも中高年層をターゲットとする
演歌ではなく、20代前半の女性向けに演歌にポップス調をプラ
スした曲にしたらどうかと考えたのです。
 こういう演歌を作れるのはあの人しかいない――そう考えた桜
井は、猪俣公章のところに行ってテレサ・テンのために曲を書い
てくれと頼み込んだのです。そのとき筒美京平がテレサ・テン用
の曲を既に4曲も完成させていたにもかかわらずです。
 さらに桜井は編曲にはポップス調で活躍していた森岡賢一郎を
起用してしています。演歌にどっぷりつからず、モダンな感じを
出すための配慮です。このようにして、山上路夫が詞を作り、そ
れに猪俣公章が曲をつけ、森岡賢一郎がアレンジして完成したの
『空港』です。最初のタイトルは『雨の空港』だったのですが
既に『雨のエアポート』という曲があったために『空港』になっ
たのです。
 1974年7月、テレサ・テンの第2弾シングル『空港』は発
売されます。この曲は桜井の狙い通り、20歳〜25歳までの若
いOLにヒットして、実売で70万枚を超える大ヒットになった
のです。調査によると、中心層はあくまで若い女性だったのです
が、40歳代の男性にも好反応が出ていたのです。これがそのあ
と、20年以上にわたるテレサ・テンの日本での人気を支えるこ
とになるのです。
 この曲のヒットによってテレサ・テンは、1974年のレコー
ド大賞新人賞を獲得したのです。ちなみにそのときの最優秀新人
賞は、麻生よう子の『逃避行』だったのです。
 2曲目にして大ヒットを飛ばしたテレサ・テンではあったが、
日本での扱いはあくまで新人のそれだったのです。しかし、香港
に行くと美空ひばりクラスの扱いを受けるのです。当時はアグネ
ス・チャンの方が、日本でははるかに格が上だったのです。
 有田氏の本にこういう逸話が出ています。香港からリンリン・
ランランがやってきたときの話です。そのとき、控室がテレサ・
テンと相部屋であったので、日本の担当者に抗議したそうです。
彼女たち自身の扱いを怒ったのではないのです。アグネス・チャ
ンには個室を与えているのに、テレサ・テンのような大歌手をな
ぜこのように低く扱うのか――という抗議です。
 テレサ・テンはそういうことには一切クレームをつけなかった
といいます。しかし、最初のうち営業の一環としてのクラブやキ
ャバレーでの仕事にはクレームをつけたといわれています。テレ
サ・テンは、こういう社交場に来る客は歌を聴きにくるのではな
いことにこだわったといいます。
 彼女は台湾や香港でもクラブで歌っていますが、お客は歌を聴
きに来ており、お客のマナーは良かったのです。既に述べたよう
に、香港の歌庁では、酒の入っているお客は、前の席には座れな
いようになっていることからも明らかです。テレサ・テンは歌手
として強い誇りを持っていたのです。


≪画像および関連情報≫
 ・『空港』について書かれているサイト

   http://www.megsweet.com/airport.html

1610号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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