2007年05月22日

●無料でオープンの決断/オーク

 ファースト・パーソン社の社内には、Aチーム、Bチームとい
う呼称があったのです。どういうことだと聞くと、表向きはAは
「アーキテクチャ/技術」、Bは「ビジネス」というのですが、
実際はAは正選手、Bは補欠という意味だったのです。とにかく
技術者優先の世界だったのです。
 当然ポレーゼーはBチームと認識されており、技術者から見る
と補欠的存在――邪魔にならない存在程度にしか見られていなか
ったのです。しかし、オークの製品化にポレーゼーは大活躍をす
るのです。もし、ポレーゼーがいなければ、JAVAは世に出て
いなかったかも知れないのです。
 後にポレーゼーが率いるマリンバの有力幹部になるジョナサン
・ペインは、ノートンが作ったオークによるブラウザのプロトタ
イプをベースに本格的なブラウザを完成させたのです。そして、
彼は、はじめて「JAVAアプレット」と呼ばれるプログラムを
作ったのです。JAVAアプレットとは、JAVAのアプリケー
ションと考えてもらえばよいのですが、正確にいうと意味は次の
通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットワークを通じてWebブラウザにダウンロードされ、ブ
 ラウザのウインドウに埋め込まれて実行されるJAVAのプロ
 グラムのことである。        ――「IT用語辞典」
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはきわめて単純なもので、画面に表示されたボックスが自
動的に赤くなるだけのものだったのです。しかし、これを出発点
として、やがてコーラの缶が何本も跳ねたり転がったりするのを
表示させる凝ったものになっていったのです。
 今から考えると、ちゃちなものに過ぎなかったのですが、19
94年当時は、WWWのサイトは静止画だけだったので、これは
驚きをもって見られたのです。動かなかったはずのものが動いた
からです。これは後に決定的な意味を持つことになります。
 マーケティング担当のポレーゼーとしては、2つの重要なこと
を決めなければならなかったのです。それは価格をどうするかと
いうことと、オークのネーミングを変更することだったのです。
 当時パトリック・ノートンは、ファースト・パーソン社を離れ
別の会社に移っており、オークを担当するメンバーは少なくなっ
ていたのですが、かえって結束力が高まったと後でポレーゼーは
話しているのです。
 オークの担当者はゴスリングをはじめとして、一貫して無料に
すべきであるという意見だったのです。つまり、オークを使って
アプリケーションを開発しても使用料はとらない。ブラウザのソ
ースコードも自由に入手できるようにし、システムの仕様書も公
開する――要するに、全面オープンにするということです。これ
なら、誰でもシステムが作れることになります。
 実はソースコードを公開することにしたのは、当時のファース
ト・パーソン社の社内事情があったのです。既に解説したように
オークには「仮想マシン/VM」の部分が重要なのですが、当時
は、サン版のUNIX/ソラリスにしか対応していなかったので
す。ウインドウズをはじめすべてのOSに対応させるにはスタッ
フの数がまるで足りなかったのです。
 そこでソースコードをオープンにすれば、社外の誰かがきっと
それを作ってくれるかも知れないと考えたのです。オープンにす
れば、セキュリティ構造も自分で調べられるので、それが安全で
あることもわかってもらえる――そういう期待もあったのです。
 しかし、ゴスリングをはじめとするスタッフ全員が密かに心に
秘めていたのは、もしかしたら、オークを会社の上層部が潰すの
ではないかという心配です。そういう場合でもオープン化を決め
ておけば、オークはいつまでも生き残ることになると考えていた
のです。精魂込めてオークを開発した技術者の願いとしてわかる
ような気がします。
 「無料」にするための根拠として、ポレーゼーはそれまでのコ
ンピュータ言語の価格の徴収について、過去のケースを調べたの
です。その結果、使用料を取るのは、「プログラミング言語を滅
ぼす確かな方法」であることがはっきりしたのです。
 一方、ゴスリングは最高技術責任者のエリック・シュミットと
話し合い、チームの考え方を理解させるため努力したのです。シ
ュミットはかねてからゴスリングの理解者であり、彼の技術力と
影響力を認めていたので、上層部にはチームの考え方を伝える必
要があると考えたのです。
 ポレーゼーをはじめとするこうした人たちの努力によって、無
料でオープンという方針は上層部によって決定されたのです。こ
れを機会にチーム全員が、ポレーゼーの力を認めるようになって
いったのです。ポレーゼーは依然として正式には双方向サービス
・グループのままであり、Bチーム――補欠的存在だったのです
が、名実ともにオークを担当するグル−プのAとして仲間から評
価される存在になっていったのです。
 1994年12月、オークははじめてサンの外に出たのです。
このときのバージョンのオークとブラウザは、まったくの未完成
のアルファ版だったので、秘密のサイトに隠され、一部の人だけ
がダウンロードを許されたのです。
 ポレーゼーとしては、広報と営業の手段として、これをしかる
べきキーマンにダウンロードさせるつもりでいたのです。そして
その意中の人の1人としてマーク・アンドリーセンを考えていた
のです。
 ゴスリングの勧めで、同じブラウン大学時代の仲間であるカー
ル・ヤコブもダウンロードしたのです。ヤコブの会社はウェブ・
サイトを出しており、テスト市場としては最適だったのです。ヤ
コブの会社「オン・ランプ」では、サイト上の道具箱に入れるも
のを探していたのですが、オークを使ってみることにしたところ
大反響が出たのです。動かないWWWが動いたのは、大きな驚き
だったのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/50]


≪画像および関連情報≫
 ・エリック・シュミットについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元米パロアルト研究所のコンピュータサイエンス研究所の研
  究員で、米ベル研究所と米ザイログ社に在籍していたことも
  ある。1983年にソフトウェアマネージャーとして米サン
  ・マイクロシステムズ社に入社。JAVAの開発とインター
  ネット戦略の立案を導き、後に最高技術責任者と執行役員を
  歴任した。             ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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