2007年05月21日

●コロラドの竜巻/ビル・ジョイの介入(EJ第2083号)

たのです。ファースト・パーソン社の進むべき道について、ネバ
ダ州タホー湖に幹部が集まって協議を行ったのです。サンの最高
技術責任者、エリック・シュミット、ジェームス・ゴスリング、
パトリック・ノートン、研究部門担当取締役ジョン・ゲージ、そ
れにサンの共同設立者のあのビル・ジョイも加わったのです。
 この会議でオークをインターネットで活用する方向は決まった
と後にゴスリングは回想しています。1994年の半ばに、パト
リック・ノートンは経営陣に加えられたのですが、それと同時に
仕事がなくなってしまったといいます。
 時間ができたノートンは、オークでブラウザを書いてみること
にしたのです。このブラウザは1994年7月にプロトタイプを
完成していますが、最小必要限度のものであり、モザイクに遠く
及ばない代物だったのです。しかし、その後ノートンが作成した
このプロトタイプを土台にして、ジョナサン・ペインがオークに
よる本格的なブラウザを完成することになるのです。
 1994年の夏になると、ファースト・パーソン社のほとんど
のスタッフは、次の2つのグループのどちらに属するか選択を迫
られたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.双方向サービス・グループ
        2.オークを担当するグル−プ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ポレーゼーは、何の選択権も与えられないまま、双方向サービ
ス・グループに入れられてしまったのです。これは彼女にとって
はショッキングなことだったのです。しかし、この会社の社員は
みんな好き勝手なことをやっており、会社の決めた組織の通りに
動いていなかったからです。
 そう思い直して、ポレーゼーはオークを担当するグル−プと行
動をともにしていたのです。そうしているうちに誰も何もいわな
くなってしまったのです。ポレーゼーとしては、オークの魅力に
とりつかれて、ファースト・パーソン社に入社したのですから、
何が何でもオークを担当するグル−プと一緒に行動したかったの
です。それにポレーゼーはマーケティングの担当ですが、肝心の
商品がないのですから、もともと仕事がないのです。
 そういうとき、サンの共同設立者であるビル・ジョイが、突然
ファースト・パーソン社に乗り込んできたのです。彼は「コロラ
ドの竜巻」という異名を持っていたのです。なぜ、そういわれる
のかというと、彼はコロラドのアスペンに住んでおり、彼がくる
と周囲の技術者たちに尋常ならざる影響を与えるので、「コロラ
ドの竜巻」と呼ばれていたのです。
 ロバート・リードは、ビル・ジョイを次のように表現していま
す。彼がなぜそう呼ばれるのかわかると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 JAVAの主要設計者で「彼こそが仮想マシンだ」と同僚に評
 されているティム・リンドホルムはジョイについてこう語る。
 「コンピュータ・オタク(技術者)にとって、ほんとうにこわ
 い相手だ。とてつもなく金を持っているし、信じられないほど
 の力を持っているし、技術にはむちゃくちゃに強いし、犬のよ
 うに働く。創業者なのに、いつまでも他人のコード(プログラ
 ム)を徹夜でチェックする。コードを書いた当人は、朝になっ
 て、間違いを指摘した5ページにもわたる電子メールを受け取
 ることになる。間違っているといわれたら、反論できない。権
 限があるからでなく、ジョイはいつも正しいからだ。干渉され
 ずに好きなことをやりたい人間にとって、ジョイは悪夢だ。と
 てつもなく優秀だし、とてつもなく力を持っている」と。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 それでは、ジョイは何の目的でファースト・パーソン社に乗り
込んできたのでしょうか。彼はかなり以前からサンの仕事から一
切手を引いていたはずだからです。
 それは、ジョイがオークに関心があったからです。ジョイは、
つねづね、「C++――/Cプラス・プラス・マイナス・マイナ
ス」というコンピュータ言語の構想を持っていたのですが、それ
がきわめてオークに似ていたからです。しかし、ジョイはオーク
について次のようにいっていたのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 オークはまだまだ未完成だ。もっと完璧にすべきだ。変更しな
 ければならない部分がこんなにある。   −−ビル・ジョイ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 しかし、説得力はあったもののジョイの基準は非常に高く、も
し、それをやればさらに5年はかかりそうだったのです。ゴスリ
ングらにいわせれば、陽のあたらない場所で何年も開発をやって
きて、そろそろ製品を出そうとしているのに、陽のあたる場所か
らいきなりやってきて直せとはどういうことだという心情です。
 会議はアスペンで2日にわたって行われたのです。出席者は、
ビル・ジョイ、パトリック・ノートン、ジェームズ・ゴスリング
ジョン・ゲージの4人だったのです。
 ジョイは、オークは保守的すぎるとして、ゴスリングに対して
大量の変更を求めたのですが、ジェームスは製品化したいと考え
て譲らなかったのです。まさにこの2日間はどなりあいに終始す
る大変な会議となり、結論は出ないで終わったのです。
 しかし、意外なことに、ビル・ジョイはあっさりと身を引いた
のです。ジョイは2日間のどなりあいを通じて、このオークを担
当するグル−プの技術の優秀性を改めて認識し、製品化を急いだ
ほうがよいと判断したからです。
 こうして、オークは製品化に向けて、最後の追い込みに入って
いったのです。ジョナサン・ペインはブラウザの制作に取り組ん
だのです。   ―― [インターネットの歴史 Part2/49]


≪画像および関連情報≫
 ・ビル・ジョイについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ビル・ジョイは、米国のコンピュータ科学/技術者。KPC
  Bパートナー。元サン・マイクロシステムズ社チーフサイエ
  ンティスト。漢字名「美流上位」を持つ親日家でもある。ビ
  ル・ジョイの法則――通信に関する法則というものがある。
  「通信網の費用比性能は1年で倍になる。通信網の性能比費
  用は1年で半分になる。」というもの。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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