2005年06月09日

日本進出のいきさつを探る(EJ1609号)

 テレサ・テンのテーマが3回進んだところで、今回なぜ、テレ
サ・テンを取り上げたのかについて述べておきます。取り上げる
きっかけは、今年がテレサ・テンの没後10年に当るからです。
EJはニュース性のある記事を取り上げていますので、ひとつの
節目を迎える今年は取り上げるに値すると考えたからです。
 そして何よりもテレサ・テンは謎の多い歌手だからです。偽造
パスポート問題、スパイ説、そして早過ぎる死――謎に包まれて
います。そのあたりを少しでも明らかにしたかったからです。
 これらのテレサ・テンの謎については、私なりに整理すると、
次の3つになります。
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 1.テレサ・テンという歌手については国によってその認識に
   おいて大きなギャップがある。とくに日本人の認識と、台
   湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)の人の認識に大
   きな差があること。
 2.テレサ・テンは単なる人気歌手ではなく、台湾と大陸の政
   治的なはざまにおいて、きわめて政治的に利用された歌手
   ではないかとの疑いがあるが、果たしてそうなのか。その
   疑惑を解明したい。
 3.2の問題とも関連するが、なぜ、テレサ・テンは台湾を出
   て香港、パリと住まいを頻繁に変えたのか。そして、なぜ
   タイのチェンマイのようなところで急死したのか。あまり
   にも謎が多いこと。
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 もうひとつ、テレサ・テンを取り上げようと思ったのは待望の
有田芳生氏の次の著作が出たことです。
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  有田芳生著
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』
  株式会社文藝春秋刊
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 テレサ・テンが急死した1995年といえば、日本はオーム事
件の真っ只中にあったのですが、有田氏はオーム事件を追跡する
かたわら、この本の執筆を早くから予告していたのです。
 私はそれをひたすら待っていたのですが、ようやく今年になっ
て発刊されたのです。この本が入手できたこともテレサ・テンを
テーマに取り上げる動機になったことは確かです。
 現在は上記の1の解明をはじめています。テレサ・テンが日本
ポリドールレコードと契約を結んだのは、1973年のことです
が、1972年の時点でテレサ・テンは香港10大スターに選ば
れていたのです。既にそのときテレサ・テンは、大歌手としての
一歩を踏み出していたのです。
 当時既に、テレサ・テンは華僑の世界ではよく知られており、
各地から声がかかるようになっていたのです。そのため、彼女は
母と一緒に香港、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インド
ネシア、タイなどの東南アジアツアーに出かけています。つまり
台湾だけでなく、東南アジア各国では幅広く知られる歌手だった
のです。しかし、当時日本で彼女の存在を知る者は誰もいなかっ
たのです。
 テレサ・テンに対する日本人のギャップとはこのことをいうの
です。今でも日本人の多くはテレサ・テンを演歌歌手として見て
おり、アジアの大歌手としてはとらえていないのです。このこと
がわかっていないと後に彼女に降りかかる数々の災厄が理解でき
ないと思うのです。
 テレサ・テンに一番最初に目をつけたのは、日本ポリドールレ
コードです。有田氏の本によると、このあたりの事情が詳しく書
かれていて大変興味深いのです。
 1973年3月のことです。日本ポリドールの幹部2人が3泊
4日の予定で香港に出張したのです。出張といっても、香港ポリ
ドールとの懇親を兼ねた旅行であり、とくに特定の仕事があった
わけではないのです。
 しかし、この出張がテレサ・テンを日本にデビューさせるきっ
かけになるのです。香港ポリドールの制作部長と食事をしたあと
彼に連れられて歌庁(ライブハウス)に行ったのです。時間は夜
の9時頃だったそうです。
 興味あるのは香港の歌庁のしきたりです。アルコールが入って
いるお客は、たとえ席が空いていても舞台の近くの席には座らせ
てもらえないのです。そこで、かなり後ろから舞台を見ることに
なったのです。
 そのとき、女性歌手が歌っていたのですが、日本ポリトールの
幹部は最後に3曲歌った歌手に注目したのです。ルックスもよく
歌は抜群にうまい。それに何となく光っている――何という歌手
かと聞くとテレサ・テンだという。日本ポリドールの社員は、当
時テレサ・テンをぜんぜん知らなかったといいます。
 しかし、席がはるかに後ろでよく見えない。そこで翌日もう一
度来ることにしたのです。昼間のうちにテレサ・テンのデータを
集め、酒を飲まないで出かけたのです。前から4番目の席でコー
ラを飲みながら、テレサ・テンの歌を聴いたのです。
 歌のうまいことは昨夜の段階でわかっていたのですが、近くで
見るとインテリジェンスを感じたといいます。これはいける!そ
う考えたポリドールの幹部は、香港ポリドールの制作部長にテレ
サ・テンとのコンタクトを頼んで日本に戻ったのです。
 日本に帰って検討した結果、契約してみようという話になって
日本ポリドールの制作部長舟木稔氏が再び香港に飛び、テレサ・
テン側と交渉をはじめたのです。
 しかし、簡単にいくと思われた交渉は意外に難航したのです。
結局、台湾で父親に会って交渉し、やっとOKをもらったという
のです。そして、1973年4月12日、日本ポリドールレコー
ドは、テレサ・テンと契約を締結するのです。初年度のギャラは
月25万円。大学卒の初任給が5万6千円の時代です。


≪画像および関連情報≫
 ・テレサ・テンの原稿を書きながら眼の前の書棚を見る。そこ
  に飾ってある写真は、若い頃から爛熟期、そしてうつろな顔
  をしたのもあれば、パリの寝室に貼ってあった貴重な一枚も
  ある。彼女の写真、ビデオなど、机の前後左右には資料や写
  真が積み重ねてある。こういう生活がもう何年も続いていた
  ――有田芳生氏
  『私の家は山の向こう/テレサ・テン10年目の真実』(文
  藝春秋社刊)より

1609号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | テレサ・テン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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