たあるプロジェクトが開発していた無名のコンピュータ言語だっ
たのですが、それをネットスケープ社のナビゲータに結びつけ、
世界中で脚光を浴びるまでに育て上げた功績者として、次の4人
を上げることができます。
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キム・ポレーゼー
アーサー・バン・オフ
サミ・シャイオ
ジョナサン・ペイン
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これらの4人は、1996年1月にサンから独立して、ポレー
ゼーをCEOとする「マリンバ」という会社を設立しているので
す。ポレーゼー以外の3人は、サンにおいて長くJAVAの開発
に携わってきた10数名のメンバーの主要な3人なのです。
これに対してポレーゼーは、1995年の春以降、JAVAの
マーケティングを担当しており、それをネットスケープ社に採択
させるのに力を発揮したのです。彼女は、JAVAについて顧客
にわかりやすく説明し、相手にその素晴らしさを理解させるのに
優れた才能を持っていたのです。
ポレーゼーは、地元のカルフォルニア州立大学バークレー校を
卒業し、さらにコンピュータを勉強するために、シアトルのワシ
ントン大学コンピュータ科学学部に入学しています。1年間勉強
して、カルフォルニアに帰り、マウンテンビューのインテリコー
プという企業に就職します。1985年のことです。
インテリコープは、AI(人工知能)に特化した企業だったの
ですが、当時はAIの最盛期であり、財源豊かな企業をいくつも
抱えていて、会社自体は潤っていたのです。しかし、企業という
よりも、研究のための研究をしているところがあり、ポレーゼー
は自分には合わないと考えて、サンに移ったのです。
サンにおいてポレーゼーは技術サポート部門に配属されたので
すが、マーケティング部門に空きがあると聞いたので、そちらに
移ったのです。具体的な仕事は、プロダクト・マネージャ――製
品の運命に大きな責任を持つ仕事であり、自らの創造力を発揮で
きる仕事だと感じたからです。
そういうわけで、ポレーゼーはサンのC++開発ツールのプロ
ダクト・マネージャになったのです。C++はオブジェクト指向
の言語で、非常に注目を集めている分野だったのです。そして彼
女は、プロダクト・マネージャの仕事をしながら、自分の会社を
持ちたいと思うようになったのです。
そのように考えはじめたときに、ポレーゼーは「オーク」――
後のJAVAに出会うのです。パトリック・ノートンからそれを
聞いたのです。ノートンに会ったのには、モンタレーで行われた
経営者会議の席上だったのです。
経営者会議は、副社長や取締役だけしか参加できないのですが
ポレーゼーは新しい開発環境である「ヘリックス」の説明とデモ
をするため、特別に参加したのです。もともと彼女は難しい技術
の説明をやさしく明解にできる能力があったのです。
一方、ノートンは、パロアルトの一等地であるユニバーシティ
街に本社を置くサンの子会社、ファースト・パーソンの幹部なの
です。この会社はサンから特命を受けて高度な技術開発をしてお
り、サンの社員でも上級幹部以外は何をやっているかいっさい秘
密にされていたのです。
ポレーゼーはたまたまノートンと同じ部屋でデモをやったこと
で親しくなり、話し込むうちにノートンは経営会議でデモをした
コード名「スターセブン」について秘密を打ち明けてくれたので
す。このときポレーゼーはその印象を次のように語っています。
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信じられないと思った。そこまで多機能で、小さくてまとまっ
ていて、優雅で、単純で、マルチスレッドで、無駄がなく、堅
牢で、安全で、OSに依存しないなんて。そんなの無理にきま
っていると思った。
――ロバート・リード著/山崎洋一訳
『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
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「スターセブン」とは何でしょうか。
これは、理想的なコンピュータ言語「オーク」によって構築さ
れる未来の住宅を制御する装置のプロトタイプモデルなのです。
「オーク」の開発が進んでいることを幹部にデモするために作っ
たものなのです。
ことの起こりは、ノートンが当時サンのCEOであるスコット
・マクニーリに送ったメールからはじまったのです。ノートンと
マクニーリは、同じホッケーチームに属している仲間であり、知
り合いだったのです。1990年の話です。
ノートンはマクニーリに「サンを退社する」という挨拶のメー
ルを送ったのです。マクニーリはノートンの能力を買っていたの
で、「どうしてやめるのか、サンの気に入らない点をメールに書
いて送ってくれ」と返信したのです。
そこで、ノートンは数千語に及ぶメールをCEOに送ったので
す。マクニーリはそれを読んで幹部と協議したのです。その結果
経営陣は、ノートンのように優秀だが経営陣に不満を持つ社員を
安易にやめさせないで、研究が続けられるように支援をする制度
を作ることにしたのです。
その結果、できたのが「グリーン・チーム」という組織です。
サンの傘下の組織なのですが、そこで何をするかは一切がまかさ
れていて、潤沢な資金が提供されるのです。ポレーゼーがノート
ンに会った当時ノートンが所属していたファースト・パーソンと
いうサンの子会社は、ここでいうグリーン・チームの発展したか
たちなのです。このファースト・パーソンが、あのJAVAを開
発したのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/46]
≪画像および関連情報≫
・スコット・マクニーリ/サン会長
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現在の私の役割を説明したいと思います。2006年の4月
に私はCEOから、会長となりました。1984年に就任し
てから以来、22年もの間CEOだったことになります。今
はスタッフミーティングやSOX法対応、社員の昇進や昇給
といったCEOの仕事を全てジョナサンに任せ、だいぶ楽を
させてもらっています。ジョナサンに頑張ってもらっている
一方、私は世界中を旅して、パートナーやサプライヤー、各
国の政府の人々にお会いしています。これは私がジョナサン
から3つのミッションを与えられているからです。1つは、
政府関連の仕事を拡大させること。2つめはトップ50のパ
ートナーのビジネスを成長させること。3つめは日本との関
係を強化させることです。したがって、今後は以前よりも多
く来日することになると思います。
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