2007年05月14日

●ネットスケープ株式公開に踏み切る(EJ第2078号)

 このテーマのタイトルは、「日本におけるインターネットの歴
史」ということになっています。しかし、このところ日本の話は
ほとんど出てきていません。というより、1994年以降、イン
ターネットに関する日本の目立った話はほとんどないといってよ
いからです。そういうわけで、ネットスケープ・コミュニケーシ
ョン社のその後について書くことにします。
 クラークは、イリノイ大学の紛争を片付けると、バークスデー
ルに連絡を取り、早くCEOを引き受けて欲しいと懇願したので
す。1994年のクリスマス休暇のときの話です。そして、19
95年1月、クラークの要請を受けてバークスデールは、ネット
スケープ社の経営を引き受けることになったのです。
 バークスデールがCEOに就任すると、ナビゲータは急速な普
及をはじめたのです。かつてのモザイクのユーザーは、1994
年4月の会社設立時には約100万人でしたが、10月にモザイ
ク・ネットスケープをリリースしたときには倍増し、200万人
を超えていたのです。この200万人のユーザーは、ごく短期間
でネットケープ・ナビゲータのユーザーに変わり、次の年の夏に
は1000万人を超えていたのです。
 北米のインターネット・バックボーンの統計によると、インタ
ーネット・バックボーンのトラフィック(ネットワークを流れる
情報量)におけるWWWの順位は、クラークとアンドリーセンが
はじめて会ったときの第11位から、ベーター版ブラウザが公開
された1994年10月には第5位、そして、ナビゲータの正規
版が発売された12月には2位となり、翌年にこのバックボーン
が廃止される4月には1位になっていたのです。
 このときバックボーンのトラフィックにWWWが占めた比率は
21.4%であり、WWWのトラフィックはたったの2年間で、
20年以上も前からあったネットワークの頂点に立ったことにな
るのです。驚くべきWWWの急速な普及度といえます。
 ここでバークスデールがネットスケープのCEOになった意義
を考えてみる必要があります。そのとき、ジム・バークスデール
は53歳、一体彼はどういう経営者だったのでしょうか。
 バークスデールといえば、情報技術を駆使した斬新な手法で、
あのフェデラル・エクスプレス社を大きく成長させた実績を持つ
経営者なのです。
 フェデラル・エクスプレス社は、日本でいうと、佐川急便やヤ
マト運輸のような宅配業者ですが、バークスデールはそのフェデ
ラル・エクスプレス社のCIO(チーフ・インフォメーション・
オフィサー/情報システム部門担当役員)だったのです。
 バークスデールは、インターネットが一般的に普及する前から
そういう情報技術を駆使して、顧客が配達を依頼した荷物が現在
どこまで運ばれているかを瞬時に把握するシステムを開発し、こ
れによって同社の顧客満足度を飛躍的に向上させたのです。
 具体的にいうと、フェデラル・エクスプレス社は、ユーザー・
インターフェイス・サイトを立ち上げているのです。このサイト
は、今でいえば単なるウェブサイトに過ぎませんが、当時は非常
に珍しかったのです。
 荷物の配達をフェデラル・エクスプレス社に依頼した顧客がこ
のサイトに接続し、「航空貨物運送状番号/荷物の識別番号」を
入力すると、荷物の輸送状況と現在地の詳しい記録を受信できる
仕組みなのです。この方がフリーダイヤルで問い合わせをするよ
りもはるかに短時間で情報が得られたのです。
 つまり、バークスデールは、世界中の人々がWWWそのものに
好奇の視線を向けはじめた時点で、既にそれを経営の道具として
応用するというすぐれた才能を発揮していたのです。そういう人
物がネットスケープのCEOに就任したのですから、世界中が注
目したのは当然のことです。
 1995年の春から夏にかけて、続々と登場したWWW関連新
技術の中で、とくにWWWの普及に貢献したのは「ジャバ」と呼
ばれる技術です。これについては、その後のWWWの世界の拡大
に大きな影響を持つので、改めて述べることにします。
 1995年の夏の時点でネットスケープ社は、ナビゲータの普
及と同じペースで拡大し、成熟度を増していたのです。社員は既
に数百人に達し、ユーザは約1000万人を超え、製品の数も急
増していたのです。
 事業資金を支援しているジョン・ドーアは、クラークと話し合
い、今こそ株式公開のチャンスだいうことで意見の一致をみたの
です。ネットスケープ社と似たようなことをやっているスパイグ
ラス社が株式公開を申請していることがわかったので、今株式公
開を申請すればマーケティングの面で有利と判断したのです。
 1995年8月9日、株式公開の日、株式公開価格は28ドル
時価総額は10億ドルあまりだったのです。これは、最初の製品
を発売(1994年12月)してから、8ヶ月足らずで、設立以
来の総売上高が約1700万ドル、累積損失が約1300万ドル
の新会社としては、なかなかよい金額だったのです。
 この8月9日の朝について、ロバート・リードは次のように書
いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 6時半にニューヨークで取引開始ベルが鳴ったが、しばらくな
 にも起きなかった。10分がすぎた。30分、1時間、そして
 1時間半がすぎた。市場は活気づき、数百万の株式が取引され
 ていたが、ネットスケープ株は1株も動かなかった。なにがど
 うなっているのか、誰にもわからなかった。そしてついに8時
 をまわったとき、動いた。最初の取引は71ドルで成立した。
 株価は74.75ドルまで上がったところで、利食い売りが出
 て下落に転じた。しかし、終値の58.25ドルでも、公開価
 格から100%以上上昇したことになる。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
―――――――    
―― [インターネットの歴史 Part2/44]


≪画像および関連情報≫
 ・フェデラル.エクスプレス社について
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  フェデラル.エクスプレス社は、航空貨物の世界トップ企業
  で、1989年に米フライングタイガーを買収して世界最大
  の航空貨物会社となりました。「安くて速いサービス」をモ
  ットーにして路線拡大しています。日本にも1984年8月
  に進出しています。フェデラル.エクスプレス社.ジャパン
  の従業員数は現在800人を越えています。成田空港では自
  社で通関可能な体制を整えてきており、1993年からは首
  都圏のほか大阪、兵庫、京都、愛知の主要都市から米国、ア
  ジア各国への翌日配達サービスを開始しています。
   http://www.gameou.com/~rendaico/nuskinco_keieiron.htm
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posted by 平野 浩 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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