2007年05月09日

モザイク・コミュニケーションズ社設立(EJ第2075号)

 ビル・フォスは、非公式のプロジェクトに参加したアンドリー
センの印象を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここの企業文化について何も知らない22、3の世慣れない子
 供で、なんとネクタイをしていた。なにを言ったらいいのかわ
 からず、じっと座っておとなしくしていた。――ビル・フォス
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
   『インターネット激動の1000日』上巻 日経BP社刊
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 ここで面白いのは「なんとネクタイをしていた」という部分で
す。実はSGIでは、ネクタイを締めることは相手に対して失礼
になるというしきたりがあったようです。アンドリーセンはそん
なことは露知らず、偉い人に会うのだからと、わざわざネクタイ
をして出席したのです。緊張していたのでしょう。
 しかし、クラークは、モザイクについて話すアンドリーセンの
ことばに耳を傾け、「WWWをやろう」と決断したのです。正直
いって、どうすれば金を儲けられるのかわからなかったのですが
とにかく資金を出し、それから儲ける方法を考えようということ
になったのです。そして、クラークはそれがやれる技術者を集め
てくれとアンドリーセンに指示したのです。
 アンドリーセンは、NCSAの仲間に「自分とジム・クラーク
が行くから、荷物をまとめておくように」という趣旨のメールを
出したのです。NCSAの仲間は、モザイク・プロジェクトをア
ンドリーセンから引き継いだ大学の上層部に失望しており、アン
ドリーセンからのメールに大きな期待を抱いたのは当然です。
 1994年3月末に、クラークとアンドリーセンは、イリノイ
州に飛んだのです。NCSAでモザイク開発に携わった仲間のほ
とんどは、ユニバーシティ・インというホテルに集結していたの
です。クラークは、その全員と30分ずつ面接を行い、結局全員
を採用――つまり、NCSAから引き抜いたのです。
 エリック・ビーナ、ロブ・マックール、ジョン・ミッテルハウ
ザー、アレックス・トーティック、クリス・フークの5人です。
そして、カンザス大学出身でNCSAの同調者となったルー・モ
ンチェリも採用されたのです。全員条件は同じで、提示された条
件は、給与とストック・オプションと合わせると、かなり良い条
件だったといいます。
 1994年4月4日、モザイク・コミュニケーションズ・コー
ポレーションが設立されたのです。原資はクラークの400万ド
ル、クラークは会長になり、アンドリーセンは技術担当副社長に
就任します。新事業名は「モザイク・キラー」――モザイクを開
発した手法を使わず、モザイクを超える機能を持つウェブ・ブラ
ウザとウェブ・サーバーの両方を作り直すことです。会社はマウ
ンテン・ビューの中心街のカストロ街に置かれたのです。
 モザイク・コミュニケーションズが設立された翌日、世界最強
のソフトウェア会社であるマイクロソフトの経営陣が、社外の保
養地に集まり、インターネット関連事業に関する会議を開いてい
るのです。そのとき、資料として使われたのが、EJ第2073
号で述べたネイサン・ミアベルトのリポートであったと思われる
のです。しかし、その頃マイクロソフト社はインターネットに対
しては依然として懐疑的であったのです。
 開発部隊を担当する管理者は、SGIからの移籍者であったの
です。クラークからは声をかけなかったものの、クラークを慕う
SGIの社員は続々と自分の意思で移籍してきたのです。あのビ
ル・フォスも移籍組です。そうしたSGIからの移籍者の中に、
広報担当のロザンヌ・シイノがいたのです。
 その当時モザイク・コミュニケーションズの社員は20人しか
おらず、アンドリーセンとしては、フルタイムの広報担当は不要
と考えていたのですが、クラークはシイノを受け入れたのです。
そういうクラークの期待に応えて、シイノは広報面で大活躍する
ことになります。
 シイノの働きかけによって、1994年7月にフォーチューン
誌は『クールな企業25社』という特集を組み、その冒頭でモザ
イク・コミュニケーションズ社が大きく紹介されたのです。NC
SA出身者のほとんどと、ジム・クラークの写真が大きく掲載さ
れた大特集です。この記事によって無名のモザイク・コミュニケ
ーションズ社は一躍有名になったのです。
 記事が出たことによって会社の知名度が上がり、優秀な技術者
も集まりやすくなり、交渉したい重要人物にも容易に会えるよう
になる−−アンドリーセンは今さらながらクラークの経営手法に
感嘆したのです。
 実はクラークはにフォーチューン誌のような記事を待っていた
のです。彼は、どうしても、ジム・バークスデールという人物に
会う機会を狙っており、そのためには有名雑誌のこういう記事が
欲しかったのです。
 ジム・バークスデールは、タイム誌に「米国のCEOのグルー
プをまとめる少数の企業経営者のひとり」として紹介されるほど
の実力経営者であり、彼に会うにはジム・クラークといえどもそ
う簡単ではなかったのです。
 当時バークスデールは、マッコー・セルラーの社長兼最高責任
者だったのです。しかし、マッコーはAT&Tとの合併を進めて
おり、バークスデールは降りるとクラークは読んでいたのです。
クラークは、バークスデールにモザイク・コミュニケーションズ
のCEOになってもらうことを考えていたのです。
 しかし、バークスデールをCEOとして招聘しようと考えてい
たのはクラークだけではなかったのです。マイクロソフト社のビ
ル・ゲイツもバークスデールの招聘を考えており、行動を起こし
ていたからです。
 その間にも、モザイクに勝るウェブ・プラウザとウェブ・サー
バーは、驚くべきスピードで開発が進められ、公開されるところ
にきていたのです。
―― [インターネットの歴史 Part2/41]


≪画像および関連情報≫
 ・ジム・バークスデールについて/梅田望夫の評論より
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  フェデラル・エクスプレス社は、日本でいえば佐川急便やヤ
  マト運輸のような宅配業者である。フェデラル・エクスプレ
  ス社は、インターネットがこれだけ騒がれる前から、情報技
  術を駆使して、顧客が配達を依頼した荷物が現在どこまで運
  ばれているのかを瞬時に把握することのできるシステムを開
  発した。顧客はいつでも自分の荷物がどこにあるのかを問い
  合わせることができるようになった。このサービスは顧客満
  足度を高め、企業は大きく成長した。ジム・バークスデール
  は、この新サービスを構想し実現した時のCIO(情報シス
  テム部門責任者)である。ジム・バークスデールは、IT企
  業の典型的な技術志向の経営者ではない。むしろ情報技術は
  道具ととらえ顧客志向を貫くことでの成功体験を持つ希有な
  経営者といった方がいい。そのバークスデールがCEOとな
  ったことで、インターネット世代の旗手・ネットスケープは
  既存産業の莫大な売り上げの中に埋まっている本当の「ゴー
  ルド」を求めて、新しい挑戦を始めたのかもしれない。
   http://www.mochioumeda.com/archive/bpmook/960801.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

2075.jpg
posted by 平野 浩 at 06:29| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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