2014年08月20日

●「バブルの生成とそれを潰した犯人」(EJ第3858号)

 日本の対外投資によるジャパンマネーの氾濫が、明らかに異常
な数値を示したのが1980年代後半です。既に述べたように、
1985年1月から1989年12月までの地価は240%、株
価は245%という異常な上昇値を示しています。
 銀行というものは、いくら多くの融資の申し込みがあっても慎
重に審査し、その大部分は断るのが通常です。しかし、1986
年から87年にかけては、銀行の融資姿勢は一段とゆるくなった
といえます。銀行の融資担当者は、地価を所与の変数と考えて、
その地価をもとにして貸し出しを増やしたのです。その頃の資金
需要は、企業も個人も土地の値上げを見込んで、不動産の購入資
金が多くなっていたのです。
 しかし、どの銀行も同じように、購入した土地を担保にする方
法で融資したので、地価はどんどん上昇したのです。こういう経
済現象を「合成の誤謬」といいます。「合成の誤謬」とは、個人
や個々の企業がミクロの視点で合理的な行動──正しいと思う行
動をとった結果、社会全体では意図しない、よくない結果が生じ
ることをいうのです。
 銀行の融資担当者は、まさか自分たちの貸し出し判断が地価を
押し上げているとは考えず、地価の伸び率をベースに貸し出しを
増やしていったので、地価が暴騰してしまったのです。
 それでも1987年までは銀行は融資を求めてくる顧客を対象
に融資に応じていたのですが、それ以降になると、銀行の方が積
極的に顧客を追いかけるようになったのです。それまで取引のな
い大手都市銀行の支店長が中小企業を訪ねてきて、「金を借りて
くれ」と懇願するような光景が多く見られたのです。
 このとき各銀行は、日銀に申し渡されたノルマをこなすために
必死になっていたのです。それは素人目にも明らかに異常な光景
であったといえます。これについて、リチャード・ヴェルナー氏
は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 銀行が貸出額を増やすのに夢中になっても、必ずしも生産的な
 信用創造は増加しない。経済のファンダメンタルによって、つ
 まり生産要素(土地、労働、資本、技術)のインプットとその
 質的な利用法(生産性)によって決まるからだ。だが、銀行は
 非生産的な信用創造ならいくらでもできる。借り手にキャピタ
 ル・ゲインが獲得できるといううまい見通しを与えればいい。
 これは担保融資を中心にすれば可能だ。土地や株式などの資産
 を根拠に信用創出と配分がおこなわれる部分だ。融資を担保の
 評価額いっぱいに上げることで、銀行は儲かりそうだと思う多
 くの借り手を獲得した。借り手がこの種の担保物件を購入すれ
 ばするほど価格は上昇し、借り手のキャピタル・ゲインが増え
 て、投資は利益を生むことになる。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、日銀が窓口指導を通じて、大量の資金を銀行に流して
いたこと意味します。その間の事情を探るために、1979年〜
89年までの日銀総裁、副総裁、営業局長を再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
             総裁   副総裁   営業局長
 79年12月    前川春雄   澄田智   三重野康
 84年12月     澄田智  三重野康   福井俊彦
 89年12月    三重野康   吉本宏   福井俊彦
―――――――――――――――――――――――――――――
 1985年当時の日銀総裁は大蔵省出身の澄田智ですが、信用
創造の実務を仕切るのは、副総裁の三重野康と営業局長の福井俊
彦です。この2人は明らかに窓口指導を通じて、銀行に大量の資
金を流し、いつものやり方で、貸し出しの実績を上げるよう指示
していたものと思われます。
 この2人のプリンスは、そうすればバブルになることを百も承
知のうえでそれをやったと思われます。つまり、意図的にバブル
を生成させようとしたのです。そして、1988年から89年に
なると、窓口指導の貸出枠を一気に引き締めたのです。
 そうすれば、やがてバブルは破裂し、深刻な不況が襲うことは
わかっていたのです。これについて澄田日銀総裁は完全につんぼ
桟敷に置かれていて、何も知らなかったものと思われます。しか
し、世間には、バブルを生みだしたのは澄田日銀総裁であると強
く印象づけられることになったのです。
 1989年12月に三重野康は日銀総裁に就任しますが、彼は
就任の挨拶において、バブル時代の日銀の政策を批判し、自分は
異なる政策を実施することを示唆したのです。マスコミは澄田の
遺産であるバブルの収拾に動く三重野を指して「平成の鬼平」と
持ち上げたのです。自分でバブルを膨らませるだけ膨らませ、自
らそれを潰し、責任は前任者の澄田総裁に負わせたうえで、自分
はその後始末に尽力するというポーズを世間に示す──それは確
信犯そのものです。こういう三重野康について、ヴェルナー氏は
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 三重野は素早く過去の政策から身を引き離し、何の関係もない
 かのようによそおった。三重野の演技は上出来だった。しかも
 彼は早くからアリバイを用意していた。1986年、三重野と
 福井の窓口指導でバブルが形成されはじめていたころすでに、
 三重野副総裁は国会証言で、「金あまり」間題について懸念し
 ていると述べている。ほんとうに懸念していたのなら、なぜ彼
 は窓口指導で銀行にあれほど高い貸出枠を設定したのか?19
 89年7月には、彼は国会予算委貞会で「引き続き金融緩の基
 調は維持していく」と述べている。
         ──リチャード・ヴェルナー著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/72]

≪画像および関連情報≫
 ●「バブル崩壊」/ウィキペディア
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  バブル崩壊という現象は単に景気循環における景気後退とい
  う面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持し
  てきた投機意欲の急激な減退、そして、政策の錯誤が絡んで
  いる。バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価
  の下落によって担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に
  陥った。また、各事業会社の収益は未曾有の不景気で大きく
  低下した。こうして銀行が大量に抱え込むことになった不良
  債権は銀行の経営を悪化させ、大きなツケとして1990年
  代に残された。「バブル」は日本語の「泡」にあたるが、バ
  ブル崩壊は泡が弾けるようにあるとき一瞬にして起きた現象
  ではない。各種指標ではある瞬間に最大値を取り、理論上、
  そこでバブル崩壊が始まったわけであるが、開始から数年間
  をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域
  や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均
  分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差があ
  る。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまだバ
  ブルが続いていた、とも言える。また公示価格では、北海道
  東北、四国、九州など1993年頃まで地価が高騰していた
  地方都市もある。         http://bit.ly/1sLmAwp
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日本の実質GDP成長率の推移.jpg
日本の実質GDP成長率の推移
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
外銀の確信的 株式カラ売りが, 抜けている
Posted by itzumo rarareru at 2017年08月05日 23:31
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