日銀の独立です。なぜなら、当時日銀は大蔵大臣の指揮下にあっ
たからです。大蔵大臣は、日銀の監督権を握り、その命令に反し
た総裁を解任できたのです。
一万田尚登は、日銀総裁のあと大蔵大臣になっていますが、こ
のとき、一万田蔵相は日銀法改正のための調査委員会を立ち上げ
ているのです。一万田としては、乾坤一擲の勝負に出たのです。
1956年のことです。
学者、銀行家、評論家に加えて、大蔵省と日銀の代表45人か
ら成る委員会です。しかし、1956年12月に首相が交代し、
閣僚は一新され、池田隼人が蔵相に就任したのです。これによっ
て、日銀法改正はほとんど絶望的になったのです。
しかし、その次の年の1957年、景気の過熱によって、国際
収支が悪化し、経済が危機的状況に陥ったのです。事態の処理に
焦った政府は、危機対応のため、一万田を蔵相に急遽復帰させた
のです。日銀としてはこれによって、再び日銀法改正の期待が膨
らんだのです。
政府の金融制度調査会の意見の大勢は、選挙の洗礼を受けてい
ない日銀に独立権限を与えるのはもってのほかであるという意見
が多かったので、日銀は頑なにそれを主張する方針を変更したの
です。そして、日銀に金融政策実施に対して裁量の余地を認め、
日銀の政策目標を政府の政策の維持と経済成長の維持から、物価
安定維持に変更すべきであると主張したのです。
政策目標を変更させることに成功すればそれは事実上の独立を
意味することになると考えたからです。なぜなら、政府や大蔵省
の政策が気に入らなければ、「それは物価安定の維持に反する」
として拒否できるからです。
これについて調査会は、日銀の金融政策実施について裁量の余
地を認め、大蔵省の権限はその日銀の決定を延期できることにと
どめるとともに、物価安定維持を日銀政策の主要目標にすること
を勧告したのです。日銀にとっては、願ってもない内容であった
といえます。当然のことながら、銀行協会と経団連は、この勧告
に賛成したのです。
しかし、ことはそう簡単にはいかなかったのです。大蔵省派は
日銀の意図を見抜き、この勧告に待ったをかけたのです。これに
ついては、リチャード・ヴェルナーの本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
元通産官僚のアライ・シンジや高度成長論者で大蔵省出身の下
村治、それに戦時経済体制を評価してきた高橋亀吉ら経済評論
家は、勧告に強硬に反対した。彼らは信用統制システムが戦時
経済体制成功の核心で、同時にインフレなき高度成長の鍵でも
あると見ていた。彼らに言わせればこれほど強力で重要なツー
ルを政府以外の者の手に渡すわけにはいかなかった。政府は独
自の課題を追求するかもしれない中央銀行に依存せずに、高度
成長政策と金融安定政策を実行できなければならない、と彼ら
は考えていた。千年前の中国の宋王朝の皇帝たちと同じく、彼
らにとっても、通貨の創造と配分をコントロールできる政府だ
けがほんとうの支配者であることは明白だった。
──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
この日銀の主張に反対するグループの働きかけが功を奏し、第
2次岸内閣で一万田蔵相は再任されず、佐藤栄作が蔵相に就任し
たのです。事実上の更迭です。司令塔を失った金融制度調査会は
結論を一つに絞れなくなり、次のようにA案とB案の両論併記に
なったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
≪A案≫
・金融政策に関する最終的な意思決定権は大蔵省に委ねる
≪B案≫
・日銀の独立は認めるが、蔵相は日銀の決定を延期できる
―――――――――――――――――――――――――――――
蔵相に就任した佐藤蔵相は、両論併記では日銀法改正はできな
いとして、日銀法は改正しないことを決定したのです。一応大蔵
省派の勝利です。1960年4月のことです。
佐藤蔵相の本当のハラは、大蔵省として何らかのかたちで、民
間部門の銀行融資の配分に影響力を行使したいと考えていたので
す。したがって、もし日銀に独立を与えてしまうとそれができな
くなると考えてそれに反対したのです。当時は大蔵省、日銀、銀
行出身者をメンバーとする金融機関資金審議会というものがあっ
て、大蔵省はそれに関わりを持つ仕組みがあったからです。
しかし、これは大蔵省の誤算だったのです。なぜかというと、
1963年に日本のOECD加盟に向けた自由化政策の一環とし
て、金融緊急措置令が廃止されたからです。この措置令の廃止は
大蔵省が民間への融資配分システムへの関与ができなくなること
を意味していたのです。
1968年には、金融機関資金審議会も廃止されると、大蔵省
は金融政策の技術的関与を日銀にまかせてしまい、その後は信用
の配分などについて、大蔵省はほとんど影響力を持たなくなって
しまったのです。
日銀総裁と副総裁のたすきがけ人事は、1974年12月に大
蔵省出身の森永貞一郎総裁の就任からはじまったのですが、その
ときは、副総裁は日銀の前川春雄であり、営業局長は三重野康で
あったので、信用配分などの決定や窓口指導の実務は、総裁に相
談・報告することなく、自由にやることができたのです。
このたすきがけ人事によって、日銀は総裁が未来の総裁を選ぶ
ことが容易にできるようになり、いわゆる一連の「日銀のプリン
ス」が生まれることになります。このようにして日銀は難敵の大
蔵省に勝利し、既にこの時期に日銀は、事実上の「円の王権」を
握りつつあったのです。 ──[新自由主義の正体/70]
≪画像および関連情報≫
●下村治とは何者か
―――――――――――――――――――――――――――
下村治という名は専門のエコノミストなら必ず知っている名
前です。1960年岸内閣退陣の後を受けて成立した、池田
内閣は積極的に日本経済の成長を促進する政策を打ち出しま
す。この所得倍増政策に理論的な根拠を提示したエコノミス
トが下村治です。1960年からの10年間、日本経済は年
間成長率10%を連続して超え、欧米の水準にまで達し、こ
の成長は世紀の奇蹟と言われました。1968年日本はGD
P総額で西ドイツを抜き世界第2位の地位を獲得します。池
田内閣の成長政策を、なんでも反対の野党の社会党はおろか
専門の経済学者でさえ、歓迎して向かえたわけではありませ
ん。下村は最低の成長率を9%、事実はそれ以上と予測しま
したが、他の学者の想定はせいぜい7%というようなもので
した。以下下村がよって立つ論拠と考え方を整理して提示し
てみようと思います。下村は、設備投資が成長の基本変数、
であると考えます。この考えは常識でしょう。そして彼が依
拠するのはあくまで客観的な数字です。(注1)特に大切な
数値は限界需給比率です。需給比率は、次のように定義され
ます。「限界需給比率=GDPの増加/民間設備投資の純増
額」です。若干説明しますと、輸入はその国の経済活動にほ
ぼ比例します。景気がよくなり生活が楽に派手になると、贅
沢もしたくなり、海外からの輸入は増えます。より多く消費
するのですから、外国製品も欲しいし、内需増加は原材料の
輸入を促進します。また民間の設備投資が貧弱では輸出はで
きません。理論的には投資ゼロなら輸出もゼロのはずです。
ですからこの定義は合理的です。 http://bit.ly/1yDJ1lx
―――――――――――――――――――――――――――
下村 治氏