きれば、景気を左右させることができます。通常ここでいう通貨
の量とは、「マネーサプライ」といいますが、日本では「マネー
ストック」といっています。
ところが、日本の中央銀行である日銀がコントロールできるの
はマネーストックではなく、「マネタリーベース」なのです。こ
れは、「ベースマネー」とか「ハイパワードマネー」ともいわれ
ています。マネタリーベースには、銀行が日銀に預ける日銀当座
預金も含まれるので、日銀がマネタリーベースをいくら増やして
もマネーストックが増えるとは限らないのです。このことはEJ
でも何回も述べてきています。その点が難しいのです。つまり、
日銀はマネーストックはコントロールできないのです。
しかし、日銀が銀行と面接し、マネタリーベースとして出す資
金全額を日銀が指定する産業に融資することを銀行が必ず実行す
るとしたら、どうなるでしょうか。この場合は、日銀は、マネー
ストックをコントロールできるのです。日銀の「窓口指導」はこ
れをやったわけです。
しかし、終戦直後は廃墟からの復興という需要があり、日銀に
よる資金の割り当てが適切であったので、信用創造による通貨は
生産活動に効率的に注ぎ込まれ、それが経済を成長させましたが
バブルは発生しなかったのです。
結論からいうと、この窓口指導は一万田尚登が日銀総裁に就任
した1946年から1991年6月まで、必要に応じて密かに続
けられていたのです。しかし、日銀からは、何度も窓口指導の廃
止がアナウンスされているのです。
とくに1964年に日本がOECDに加盟してからは、経済に
対する直接的な統制を緩和し、市場指向的経済システムを採用す
るよう国際社会から強く求められていたので、疑いをかけられな
いために、あえて窓口指導の廃止を公式にアナウンスせざるを得
なかったのです。
しかし、窓口指導は、非公式な法律的根拠のないマネーのコン
トロール手段であり、日銀の6人の総裁の指導の下に、1991
年まで秘密裏に実施されたのです。それが奇跡といわれる戦後の
日本の経済成長に深く関係しているのです。
日銀の6人の総裁というのは、ここまで何度も出てきている次
の6人です。
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1.新木 栄吉 4.前川 春雄
2.一万田尚登 5.三重野 康
3.佐々木 直 6.福井 俊彦
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1945年〜1994年までの約50年間で6人なのです。そ
の間の日銀総裁の数はもっと多いのですが、これらの6人はいず
れも日銀生え抜きの日銀総裁なのです。日銀生え抜き以外の総裁
──ほとんどは大蔵省出身ですが、彼らをつんぼ桟敷に置いた状
態で、窓口指導は秘密裏に行われていたのです。
彼らは、一万田元総裁から窓口指導のノウハウを受け継いでお
り、それぞれ10年間にわたって、日銀を支配してきたのです。
問題はどうして10年間もコントロールできたかという点です。
1980年代を例にとると、次のようになります。
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総裁 副総裁 営業局長
79年12月 前川春雄 澄田智 三重野康
84年12月 澄田智 三重野康 福井俊彦
89年12月 三重野康 吉本宏 福井俊彦
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日銀総裁と副総裁の任期は5年なのです。澄田智は大蔵省出身
ですが、副総裁を5年勤めてから総裁を5年やっています。三重
野康も同様に副総裁と合わせて総裁を10年やっています。
窓口指導をするには融資のノウハウを持っている必要がありま
すが、それは副総裁と営業局長が実務を取り仕切るのです。営業
局長はたすきがけ人事の対象外であり、すべて日銀生え抜きのス
タッフが就任します。しかし、大蔵省出身の副総裁のときは総裁
と営業局長が窓口指導を行うのです。なお、上記の吉本宏副総裁
は、大蔵省出身です。
要するに、大蔵省出身の総裁や副総裁には、窓口指導の実務は
一切触れさせないし、報告すらしないのです。したがって、窓口
指導はすべて日銀生え抜きの総裁と副総裁、それに営業局長によ
り行われたのです。大蔵省出身の総裁と副総裁は完全にお飾りで
あったのです。
日銀総裁・副総裁のたすきがけ人事は、日銀生え抜きの佐々木
直総裁の後に大蔵省出身の森永貞一郎が就任したときにはじまっ
たのです。このときは、日銀は法律上は大蔵大臣の指揮を受ける
立場にあり、たすきがけ人事は仕方がなかったのです。その代わ
り、大蔵省出身の日銀総裁のときは、日銀生え抜きの副総裁や営
業局長は、絶対に統治させなかったのです。まさに大蔵省出身の
日銀総裁は、「君臨すれども統治せず」の状態に置かれていたと
いってよいのです。
この大蔵省出身の日銀総裁について、リチャード・ヴェルナー
氏は次のように述べています。
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大蔵省出身の人物が日銀総裁に任命されているときは、総裁は
重要なコントロール・メカニズム、すなわち信用創造量の決定
から排除されるということだ。信用創造量は部下の日銀スタッ
フが決定し、総裁への報告はなかった。世論は日銀の真の統治
者について誤解させられてきたのである。
──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
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──[新自由主義の正体/68]
≪画像および関連情報≫
●日本人が知らない恐るべき事実/福井総裁と日銀について
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石井:福井さんが総裁就任を受諾するとは思わなかった。福
井さんには副総裁だった98年当時、日銀接待汚職事件の責
任を問われて松下総裁とともに辞任したという経緯がある。
その時、福井さんは全然責任を感じておらず、次は自分の番
だと総裁就任に意欲を示していたが、自民党長老の一喝でや
むなく辞任した。もちろん責任を自覚していないのは福井さ
ん本人だけで、自殺者を出した上に100人以上の処分者を
出したのだから、副総裁という内部管理者のトップとしての
彼の責任は非常に重い。福井さんが日銀を去る時に口にした
「世の中に迷い出る」「私は日銀に帰らない」という言葉は
今でも記憶に新しい。それからわずか5年で、日銀に帰って
くるとは驚きだ。
ヴェルナー:今から30年以上も前に、日銀の内部の偉い人
たちが集まって、2000年あたりの総裁は福井俊彦にしよ
うと決めていたからだ。こうした計画が実は1960年代の
終わりからあった。それ以来、福井さんはずっと日銀のプリ
ンスと呼ばれていた。総裁の選び方は、どう考えてもおかし
い。若いうちに、たとえば32〜33歳で65歳から70歳
の時期の総裁を決めるのはどう考えても能力主義ではない。
同期や同世代の人たちに「おれが総裁だから、君たちはどん
なにがんばっても総裁になれない」という逆インセンティブ
を与えてしまう。こんなやり方は、どう考えてもやはりおか
しい。 http://bit.ly/1pojhJ7
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澄田 智元日銀総裁