2014年08月13日

●「『窓口指導』と日本経済復活の謎」(EJ第3853号)

 終戦直後に日銀がやった措置について再現します。一万田日銀
総裁が終戦後にやったことは、一にも二にも銀行を建て直すこと
です。中央銀行ですから当然のことではありますが、終戦直後で
あり、銀行システム全体が事実上破綻状態になっていたのです。
 そのとき銀行は資産がほとんど無価値になり、個人預金者の貯
蓄という負債が残り、それに紙切れ同然の戦時国債が山をなして
いたのです。さらに財閥が解体されたことで、銀行は大打撃を受
けており、貸し出しなどできる状態ではなかったのです。
 一万田総裁は、それらの戦時国債を高値で買い取ったのです。
通貨を印刷できる日銀は不良債権を心配することはないので、そ
れを思い切ってやったのです。しかし、条件はつけたのです。銀
行にリストラや合併を命令したのです。これには民間銀行は、い
いなりになるしか助かる道はなかったのです。
 一方企業に関しては、日銀は銀行の代わりをしたのです。企業
に融資を日銀営業局に申し込むようにさせたのです。当時日銀の
営業局長は佐々木直であり、融資の決裁はここがしたのです。融
資を認められた企業は手形を発行して銀行に申し込むと、日銀は
新円を印刷してそれを買い取ったのです。これによって銀行業務
は少しずつ回復していったのです。
 このように銀行が息を吹きかえすと、一万田総裁は、営業局長
の佐々木と相談して、次の基準にしたがい、産業別に慎重に資金
配分を決定したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎優先度「A」
  ・石炭、鉄鋼、造船、電力、鉄道、工作機械、輸送業などの
   輸出関連産業
 ◎優先度「B」
  ・A以外のほとんどの製造業と小売業、農業、教育、それに
   ケース・バイ・ケースで建設業
 ◎優先度「C」
  ・不動産業、デパート、ホテル レストラン、証券業、出版
   業、アルコール飲料など
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、一万田日銀総裁は「王」になったのです。どの
プロジェクトを認め、どれを断るか、一万田総裁の一存ですべて
が決まるからです。産業界の指導者は、一万田総裁とその部下た
ちの顔色を伺うようになっていったのです。
 いったん決まったら、苦情の申し立ては一切できず、黙って従
うしかなかったのです。まさに「ツルの一声」であり、一万田総
裁は「法王」と呼ばれるようになったのです。一万田は占領軍の
信頼を得ており、まさに鬼に金棒だったのです。
 後年、一万田総裁は「日銀マンは能力を隠せ」と部下に教えて
いますが、このときは権限をフルに使って、一万田と佐々木の2
人の判断ですべてを仕切ったのです。これによって日本経済は2
桁の成長をはじめたのです。
 この一万田と佐々木の実施した融資の割当枠の決定方式のこと
を「窓口指導」というのですが、リチャード・ヴェルナー氏は、
自著で次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年代はじめには、経済は2桁成長しており、融資の申
 し込みは莫大になっていた。営業局による銀行信用の配分シス
 テムが最終的なかたちをとったのは、この時期だった。総裁は
 まず融資総額の伸び率を決め、それから腹心の部下である佐々
 木直営業局長と2人で増加分を各銀行に融資割り当てとして配
 分する。銀行は大口の借り手の名前にいたるまで細かい融資計
 画を毎月日銀に提出するよう求められていた。東京の銀行は日
 本橋の日銀本店に、その他の銀行は33の日銀の支店に報告を
 おこなった。つぎに日銀は、信用配分計画に合うように融資計
 画を「調整」する。日銀に赴いた銀行幹部は、文字どおり日銀
 のカウンター(窓口)で融資割当枠を告げられたので、この手
 続きは「窓口指導」という名で知られるようになった。企業と
 同じで日本の銀行も市場シェアの拡大を追求する経営者によっ
 て運営されている。そこで、放置しておけば銀行間の市場シェ
 ア争いが過熱し、商品、つまり銀行融資の行き過ぎたダンピン
 グが起こっただろう。それを窓口指導が解決した。これは、競
 争を制限する典型的な産業力ルテルだったからだ。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日銀の「暴走」を苦々しく思っていたのは、他ならぬ大蔵
省です。大蔵省は何とか日銀の力を押さえようとして、戦時中の
1942年に日銀法を改正し、それまで民間株式会社だった日銀
を大蔵省に属する政府機関に変えたのです。
 しかし、終戦後占領軍はさらに日銀法を大きく改正しようとし
たのです。一万田総裁は占領軍司令部に、戦後の経済再生には日
銀の力は必要であるとして説得を重ねたのです。占領軍司令部は
一万田総裁を信用しており、日銀法の改正は最小必要限度のもの
にとどまったのです。
 日銀法は、占領軍によって1949年に改正されましたが、日
銀の政策をチェックする政策委員会の新設が決められただけに終
わったのです。しかも、一万田は占領軍当局を説得して、政策委
員会は日銀内部に置き、日銀総裁がコントロールできるようにし
たのです。そのため政策委員会は、お飾りの委員会になり、日銀
はその後も大幅な独立性を維持できるようになったのです。
 一万田総裁のバックには誰がいたのでしょうか。それは、マッ
カーサー連合軍最高司令長官だったのです。一万田が電話をかけ
てマッカーサー司令長官に会いに行くと、副官が総司令部の玄関
までわざわざ出迎えてくれるほど信用されていたというのです。
これでは、たとえ大蔵省といえども一万田には何もいえなかった
わけです。          ──[新自由主義の正体/67]

≪画像および関連情報≫
 ●日経「春秋」/2013年4月5日付
  ―――――――――――――――――――――――――――
  土地の守り神をまつった社を取り囲むようにして、木々がう
  っそうと生い茂る。日本は各地に鎮守の森が残っている。終
  戦の翌年に日銀総裁に就任した一万田尚登氏も、その静かで
  落ち着いた様子にひかれた一人だ。「日銀は鎮守の森のよう
  にありたい」と言っていた。
  ▼戦後のインフレを抑え込み、産業復興の資金手当てにも力
  を入れたのが一万田氏だ。GHQ(連合国軍総司令部)から
  一目置かれ、権勢をふるい、言動を経営者は注視した。ただ
  本人は「日銀が注目されるのは経済が悪いときだ。目立たな
  いのが一番」と考えていたという。それで「鎮守の森」にな
  ぞらえてみたのだろう。
  ▼黒田東彦新総裁が率いる日銀が本格的に動きだした。世の
  中に出回るお金を増やし、企業や家庭が借りやすくする金融
  緩和では新しい手法を打ち出し、市場は大きく反応した。デ
  フレ脱却へ向けて日銀が打つ手は各国の経済に影響を与え、
  黒田氏の発言には世界の耳目が集まる。「静かに目立たず」
  とは、とてもいかない。
  ▼植物生態学者、宮脇昭氏の著書「鎮守の森」によれば、古
  くからその土地に根を張ってきた木々は災害に強く、地震や
  台風でも倒れない。日銀が頼りにされるのも、今が苦境脱出
  への正念場だからだろう。企業がもうける力をもっとつけて
  日銀が「鎮守の森」のように、後ろでどっしり構えていれば
  いい日はいつ来るか。       http://bit.ly/1staSGF
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マッカーサー元帥.jpg
マッカーサー元帥
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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