2014年08月12日

●「一万田元日銀総裁の戦後処理戦略」(EJ第3852号)

 戦前の日本において官僚は、明治維新以来一貫して「天皇の官
僚」であり、軍部とともに絶対的な権力を持っていたのです。敗
戦によって軍部は解体され、天皇は象徴天皇になりましたが、官
僚体制はほぼ戦前のまま残ったのです。
 連合国最高司令長官ダグラス・マッカーサーは最初から日本は
間接支配することを決めており、国の支配権は官僚の手に委ねら
れたのです。政治家はいたのですが、事実上はすべてを官僚が仕
切っていたのです。
 しかし、官僚を中心とする日本の支配層は、表面上は民主主義
国家を装うために、1955年にいくつかの政党が合併して「自
由民主党」をつくり、一党君臨体制が長く続いたのです。これは
「五五年体制」と呼ばれています。この五五年体制は官僚国家に
民主主義的な体裁を整えさせる格好の隠れ蓑になったのです。リ
チャード・ヴェルナー氏はこの体制を「官僚支配翼賛会」と呼ん
でいます。
 自民党政権は、その後ほぼ40年間続いたのですが、1993
年に小沢一郎氏が主導する細川連立政権に政権交代し、1998
年に政権復帰したものの、2009年にまたしても小沢氏の主導
する民主党によって二度目の野党に転落したのです。
 ところが、政権交代しても官僚体制を解体できず、2012年
末にまたしても自民党政権に戻っています。しかるに官僚体制は
ほぼ戦前のまま残っています。しかも、この二度にわたる政権交
代によって日本は本当の民主主義国家なのだということを世界に
誤認させることに役立っているのです。
 一万田尚登が占領軍の承認を得て日銀総裁になったのは、19
46年のことです。年齢が53歳という当時としては、若手の日
銀総裁の誕生です。なぜ一万田が選ばれたかというと、彼がハイ
パーインフレーションへの対応策を勉強していたからです。
 一万田尚登は、1924年から26年までベルリンに派遣され
ドイツの中央銀行であるライヒスバンクのヒャルマール・シャハ
ト総裁に信用統制政策を学んでいるのです。一万田が訪れた当時
のドイツは、第1次世界大戦の敗戦を受けてハイパーインフレー
ションが進行し、それをようやく克服した時期であったのです。
『一万田尚登伝記・回想録』にそれに関する記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 僕は通貨の適正量というものをあらかじめ決めておくことが戦
 後のインフレーション時代にはとりわけ必要だと思っていた。
 金本位制度なら銀行券発行は自然に調節されるが、管理通貨の
 もとではあらかじめ一定の限度を設けておかないといけない。
 ただ、適正量・限度を決めるのはなかなか難しいけれども、ラ
 イヒスバンクのシャハト総裁は、「銀行券はある一定の発行量
 以上は総裁の職を賭けても発行しない、金庫に鍵をかけて中央
 銀行からお札を出さないことが、悪性インフレーショシを止め
 る妙薬だ」と言っていた。
        ──『一万田尚登伝記・回想録』/徳間書店刊
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 一万田はシャハト総裁のドイツの戦後処理を実際に見ることが
できたのです。地獄のようなハイパーインフレーションがみるみ
るシャハト総裁率いる中央銀行・ライヒスバンクによって処理さ
れている現場を体験したのです。それが約20年後の日本で役に
立ったのです。
 敗戦直後の日本の状況は惨憺たる状態だったのです。これにつ
いて、リチャード・ヴェルナー氏は次のようにまとめています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦争が終わったとき、銀行の貸出帳簿は、惨憺たるありさまに
 なっていた。戦争末期の絶望的な日々に、銀行はさらに軍需産
 業への融資を強化するよう命じられていた。非生産的な目的の
 ための敵資は結局不良債権になる。戦いに負けたばかりの国の
 戦費融資は最悪の不良債権になる。銀行のほかの主要な資産は
 「大東亜戦争国庫債券」その他の戦時国債だった。これらの国
 債はその後闇市で記念品として叩き売られるしかなかった。銀
 行の大半の資産は無価値だったが、負債は依然として残ったの
 である。個人預金者の貯蓄である。資産は負債よりも少なく、
 銀行システム全体が事実上破綻していた。しかも、民間銀行は
 財閥解体への動きによってさらに打撃を受けた。貸出など考え
 られなかったし、現実にできる状況ではなかった。だが銀行の
 信用創造がなければ、充分な通貨が流通しない。したがって、
 経済は行き詰まって、深刻な不況に陥った。
         ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の場合、終戦直後の経済は惨憺たる状態に陥り、インフレ
になったのですが、第1次大戦後のドイツのようにはならなかっ
たのです。それは一万田日銀総裁の政策の実行が水際立っており
思いのほか早く経済を再生させることができたのです。
 一万田総裁は、何よりも経済を浮揚させることが必要であると
考えたのです。そのために次の2つの戦略をとったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.一般銀行は膨大な不良債権をかかえて麻痺状態にあった
   ので、日銀が一般銀行の代わりをする。
 2.一般銀行に融資ビジネスを再開させるため、日銀は紙幣
   を刷って、戦時国債を高値で買い取る。
―――――――――――――――――――――――――――――
 超不況からの脱出は、銀行を生きかえらせることです。そのた
め一万田は、日銀が一般銀行の代役を務めて企業から融資を受け
付け、借り入れが認められた企業には手形を発行させ、銀行を通
じて日銀がそれを新円で買い取ると同時に、一般銀行から無価値
の戦時国債を高値で買い取ることにより、銀行を生きかえらせた
のです。           ──[新自由主義の正体/66]

≪画像および関連情報≫
 ●自民党結党と55年体制確立/ウィキペディア
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  1950年代当時、革新政党である日本社会党も社会党左派
  と社会党右派に分裂していたが、1955年(昭和30年)
  になって再統一で合意したことから、保守勢力にも統一した
  保守政党が急務という声が高まり、保守合同が実現した。自
  由党と日本民主党は両党の公認だけで当時の定数(467)
  を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避ける
  ことも目的の一つだった。政治学者の北岡伸一によると、政
  党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・
  戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同
  の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持でき
  ればマシな方だろう」という程度の認識だったという。自由
  民主党の派閥は結党時は8派閥、「八個師団」と称された。
  結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の
  第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲
  得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議
  席の99%以上を占めた。こうして、自民優位の二大政党制
  (社会党は自民党の半分程度であることから「一と二分の一
  政党制」とも呼ばれた)である、55年体制が成立した。
                   http://bit.ly/1ktQzpU
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ヒャルマール・シャハト総裁.jpg
ヒャルマール・シャハト総裁
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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