に変更した経緯について述べましたが、日本という国は、こうい
う国にとっての重大事にさいして政治がほとんど機能していない
のです。つまり、政治家や国民の監視の及ばない官僚の世界で物
事が決められているのです。官僚主導は現在でもそうですが、当
時はもっとひどかったのです。
当時の佐藤栄作首相の『佐藤栄作日記』には、次のようなこと
が書かれています。
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田中敬大蔵大臣官房総務文書課長がやってきて、土曜日に為替
をフロート(変動相場制)にする」との申し出に「許す」とあ
る。どうも事後報告を受けただけで、自ら判断したようにはみ
えない。しかも「ドルの平衡買いが十一億ドルになったという
ことで・・・閣議なしとすると万事好都合」とある。
──『佐藤栄作日記』/朝日新聞社より
──三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
文春新書481
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これを読むと、これほどの重大事が首相へは事後報告で済まさ
れ、閣議にもかけられていないことがわかります。当時の米国と
しては、輸出制限の要請も円の切り上げ要求も前向きに対応しな
い日本に対し、ニクソン・ショックを機に重要な二者択一を迫っ
たのです。これについて、元経済同友会副代表の三国陽夫氏は自
著で次のように書いています。
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ニクソン大統領はニクソン・ショックを通じて日本に二者択一
を迫った。すなわち生産力増大のシステムを変えるか、あるい
はそれを変えずにアメリカが回したつけを払うか、要するにド
ルを買い支え続けるかである。日本にすれば、国として二つの
選択肢が与えられたことになる。ニクソン大統領は、日本がド
ルを買い支える選択をすることに賭けたのだった。
──三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』
文春新書481
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これについては、2004年に「日米関係の謎」として、EJ
で取り上げています。 http://bit.ly/1oic3B7
さて、1980年代の日本はどうだったでしょうか。これにつ
いてリチャード・ヴェルナー氏は次のように述べています。
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1980年代。先進国における金融の規制緩和と、資本市場の
自由化の時代である。銀行と証券業に対する規制は緩められ、
金融部門のカルテルは崩れ、金融機関は厳しい競争にさらされ
た。ほとんどの先進国は資本の移動に対する制約を撤廃した。
資本の国際的な移動が激しくなるにつれて、一瞬のうちに莫大
な資金が国と国、そして種々の金融資産のあいだを移動した。
(中略)日本の長期資本の流れは、1980年には20億ドル
以上の入超だったのに、81年には、資本輸出額がほぼ100
億ドルになった。ところがそれから4年間に日本の資本はなん
とほぼ7倍も増加し、85年には650億ドルという歴史的な
額に達した。しかも、つぎの2年で1320億ドルとさらに倍
増する。87年には、この劇的な資本の潮流は1370億ドル
と記録を更新し、翌年も1310億ドルの資本が流れ出ていっ
た。87年、長期資本の純輸出額は、記録的な経常収支黒字の
さらに2倍近くになっていた。この金融の「津波」は70年代
のOPECのそれさえ簡単に凌駕した。──リチャード・ヴェ
ルナー著/吉田利子訳
『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
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このようにジャパンマネーは怒涛のように世界中を襲い、全世
界の金融資産と不動産を買い漁ったのです。米国産業界の記念碑
ともいうべきロックフェラー・センターやコロンビア映画、世界
一美しいといわれるカルフォルニア州のペブル・ビーチ・ゴルフ
場などが日本人の手に落ちたのもこのときのことです。
これは欧米人にとって、日本は戦争に負けたので、経済的に占
領の仕返しをしようとしてやっていると思わせるのに十分な行為
だったといえます。欧米の経営学のグルたちは、強い危機感を感
じ、日本流の経営テクニックをチェックせよと、全世界の産業界
の指導者に呼びかけたほどだったのです。
1980年から1990年までの日本による純対外直接投資の
額は、次のようになっているのです。
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≪日本の対外直接投資≫
1980年 ・・・・ 20億ドル
1985年 ・・・・ 60億ドル
1986年 ・・・・ 140億ドル
1988年 ・・・・ 340億ドル
1989年 ・・・・ 450億ドル
1990年 ・・・・ 460億ドル
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問題は日本がなぜこんなことができたかです。1970年は日
本の資本の流れは教科書通りです。日本の貿易あるいは経常収支
の黒字額に資本の流れが見合っていたからです。つまり、純輸出
で得たマネーを外国に投資していたことが数字から読み取れたの
です。しかし、1980年代に入ると、長期資本の輸出は経常収
支をはるかに超える規模になっており、次のことがいえます。
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1980年代の日本は、輸出で得た金で買える、はるかそれ
以上の資産を外国で買っていたことになる。
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──[新自由主義の正体/62]
≪画像および関連情報≫
●三国陽夫著『黒字亡国/対米黒字が日本経済を殺す』から
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第2次オイルショックの影響が薄れると、経常収支の黒字は
大きく増えはじめ、黒字を維持するために資本輸出が行われ
てきた。輸出業者が受け取ったドルを円に交換せず、銀行な
どの金融機関が肩代わりする。ドルのままアメリカに貸し置
く、すなわち、資本輸出を続けた。これでどうなるのか。あ
るイギリスのバンカーにこのことについて訊ねると、さらり
と言ってのけた。「日本からアメリカへの資本輸出には、2
つの効果がある。一つは購買力の移転、もう一つはベースマ
ネー(日銀券と日銀当座預金の合計額を指し、銀行の信用創
造の基礎、つまりベースとなる通貨)の輸出だ。」とりあえ
ず、日銀の与信によって日本は失ったベースマネーが回復す
る。アメリカでは、日本に支払ったカネがそっくり戻り、本
来失うべきベースマネーが回復する。日本とアメリカではベ
ースマネーが二重になりアメリカでは過剰流動性が発生し、
カネがあふれる。経常収支の黒字がデフレの原因というのな
ら、黒字が拡大しはじめた1980年代からデフレ現象がみ
られなかったのはなぜか、という疑問が残る。・・・皮肉な
ことに資本輸出を続けるためには「無駄」な公共投資は不可
欠だった。国債の大量発行によって財政支出が行われ、じゃ
ぶじゃぶになった資金の一部が受注から完成の過程で複数の
建設業者の預金口座に振り込まれる。当面使われることのな
い預金が増えれば、ドルは支えられる。しかし、国債は価格
の暴落が危ぶまれるほど膨らみ、バブルの様相を呈したので
ある。 http://bit.ly/1seUI26
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三国陽夫著『黒字亡国』