2014年08月05日

●「高度経済成長中における日米関係」(EJ第3847号)

 「前川レポート」は、戦時経済体制を廃止し、日本経済の米国
型経済への転換を提言したものです。なぜそのような提言をした
かというと、それは直接的には米国──レーガン政権から要求さ
れたからです。そのバックには、日米欧三極委員会の存在があり
ます。政権を裏からコントロールしていたのです。
 ここで日本の1970年代と1980年代の経済の状況を頭に
入れておく必要があります。ところで、日本が高度経済成長を成
し遂げた時期というのは1954(昭和29)年12月から19
73(昭和48)年11月までの19年間なのですが、次の3期
に分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ◎高度経済成長第1期 ・・ 設備投資主導型
      1954年12月〜1961年12月
  ◎高度経済成長転型期/ ・・・・・ 転換期
      1962年 1月〜1965年10月
  ◎高度経済成長第2期 ・ 輸出/財政主導型
      1965年11月〜1973年11月
―――――――――――――――――――――――――――――
 連合国総司令部が日本の占領統治を開始したとき、戦争で壊滅
状態に陥ったとはいえ、日本は工業国として相当の生産能力を有
していたのです。米国はそれを内心恐れたものの、その生産能力
を共産圏の防波堤として活用することを決めたのです。
 日本にとって幸いだったのは1950年の朝鮮戦争特需です。
これによって生産設備はフル回転し、1953年には第2次世界
大戦前の水準に回復していたのです。終戦後約10年で戦前の水
準に回復し、それから高度経済成長が始まるのです。
 しかし、1964年から1965年にかけて経済は急速に縮小
し、事態は一変したのです。1964年には日本特殊鋼(現大同
特殊鋼)が、1965年には山陽特殊製鋼が倒産し、さらに大手
証券会社が軒並み赤字に陥ったのです。
 日本政府はこれに対処するため、1965年5月には、山一證
券へ日銀特融が行われ、7月には、はじめて赤字国債を発行する
事態となったのですが、何とか昭和恐慌の再来を防ぎ、高度経済
成長を維持し、1970年代に入るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1959年、経済の実質成長率は17パーセントで、インフレ
 はそこそこに抑えられていた。1960年、指導的なエコノミ
 ストは、10年で日本の国民所得は倍になりうると驚くべき主
 張をおこなつた。大蔵省出身のエコノミスト下村治は、同じ期
 間に日本の国内総生産は3倍まではいかなくても2.5 倍に拡
 大できるだろうと言った。結局のところ、1960年から70
 年までに、日本の国内総生産は71兆6千億円から188兆3
 千億円へと2.6 倍に成長した。1970年、日本はドイツを
 抜き、敗戦の廃墟のなかから出発して世界第2位の経済力を達
 成したのである。──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、日本の総動員戦時経済体制の米国に対する勝利といえ
ます。しかし、この日本の躍進は、世界──とくに米国との間に
多くの摩擦を生み出すことになったのです。日本は製造業製品の
輸入には高い関税をかける一方で、とことん輸出を最大化する戦
略をとっていたからです。
 その結果、米国の対日貿易赤字は1967年には4億ドルだっ
たものが1968年は12億ドル、1969年には16億ドルに
拡大したのです。とくに繊維に関する米国との二国間交渉は、個
別の関税や輸入割り当てをめぐって泥沼化したのです。
 繊維産業に続いて日本の自動車産業や家電製品がシェアを伸ば
してきたのです。米国や欧州の多くのメーカーは、日本が過度の
ダンピングをしていると批判しましたが、日本の場合は個々の企
業によるダンピングではなく、戦時経済体制というシステムとし
てのダンピング──ソーシャル・ダンピングだったのです。それ
は採算を度外視しても、容赦なくシェアを増やし、競合企業を駆
逐するまで続けるというものです。
 実はこのとき日米の間では貿易摩擦が原因で関係が深刻化して
いたのです。米国から見ると、繊維交渉でいくら日本に輸出制限
を頼んでも──それが、沖縄返還の見返りだったにもかかわらず
──応じようとしないし、当時の西ドイツのように、マルクの対
ドル切り上げをやったように、水面下で交渉しても応じようとし
ないとして、米国は日本に相当アタマにきていたのです。
 そうこうしているうちに起きたのが「ニクソン・ショック」で
す。フランスは米国がドルを印刷して欧州企業を買収しているこ
とに気づき、フランスに流れ込んだドルをできるだけ集めて米国
に持ち込み、金との交換を申し入れたからです。これは、「フラ
ンスによる『フォート・ノックスの襲撃』」として有名です。
 これに仰天したのは日本です。解決策は、変動相場制に移行す
るしかないからです。ヨーロッパ諸国は、ニクソン・ショックの
直後に為替市場を閉鎖しましたが、日本は市場を開け続けたので
す。それは、銀行に保有させたドルを政府が外貨準備を急増させ
て引き取る時間が必要だったからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本は仰天した。日銀と大蔵省は対ドル固定レートを廃止する
 まで、さらに10日待った。その間に、日銀は必死で弱い円を
 維持しょうと努力した。そのために紙幣を大量に印刷し、この
 円を使って、外貨市場でアメリカ・ドルを買い込んだ。外貨準
 備は8月のひと月で50億ドルも急増した。それから円が上昇
 したので、1971年12月には、スミソニアン会議で1ドル
 308円と決められた。
         ──リチャード・ヴェルナー著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/61]

≪画像および関連情報≫
 ●フォートノックスに保管されている金塊はニセモノ!
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカのフォートノックスというところにはアメリカ政府
  の大量の金塊が保管されていました。過去形にして申し上げ
  たのは、この金塊が、事もあろうにタングステンに金メッキ
  を施したニセモノである、という事実が最近いろんなサイト
  で暴露されているからです。実は私も数年前からこの事実を
  聞かされていました。俄かには信じられない話ですが、何分
  にも膨大な金塊の量ですからそれがすべてニセモノだと言わ
  れてもわれわれ素人には解りようがありません。一個とか二
  個の金塊なら調べようもあるでしょうが、私の聞いた話では
  フォートノックスに保管してあるすべての金塊がタングステ
  ンに金メッキを施したニセモノだというのです。これは何を
  示しているのでしょうか。マスメディアはまったく報じては
  いません。それはそうでしょう。アメリカの金塊がほとんど
  ニセモノだと言ったら世の中、というか地球はひっくり返り
  ます。仮に真実であっても口が裂けても偽物だとは言わない
  でしょう。ですが、こうアチコチからニセモノだという情報
  が出てくれば、一応は調べて見る必要がある、というもので
  す。しかし、調べても、真実は決して明らかにはされないで
  しょう。金は今では金兌換に意味はないと言っても、資産、
  つまり世界中で動いているカネの裏付けにもされうるものだ
  からです。            http://bit.ly/1nd1vTI
  ―――――――――――――――――――――――――――

ニクソン元米大統領.jpg
ニクソン元米大統領
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。