2014年07月30日

●「米国による日本支配の系統を探る」(EJ第3843号)

 日本を占領した連合国軍最高司令官総司令本部のスタッフのな
かには、急進的な左翼思想を持つ者も多くいて、このさい日本を
二度と米国に脅威を与えない国にしようとしたのです。しかし、
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、極東情勢の変化
もあり、日本を反共の防波堤にしようとしたのです。この政策を
「逆コース」と呼ぶのです。
 マッカーサーの命を受け、この逆コース政策を推進したのが国
務長官特別顧問のジョン・フォスター・ダレスという人物です。
このダレスは、1935年から1952年にわたってロックフェ
ラー財団の理事を務めており、ロックフェラー家の法律顧問をし
ていたのです。なお、ダレスは、アイゼンハワー政権では国務長
官に就任しています。戦後の日本は、ロックフェラー家の利権の
ひとつであり、日本に対し強い影響力を持っていたのです。
 ロックフェラー3世は米国のソフト戦略の一環を担っていたの
です。それは、大学、研究機関、官庁、司法機関、農業と開発協
力、英語教育、医療・福祉、文化団体の多岐にわたるのです。そ
れに対しロックフェラー財団が助成金を提供するのですが、その
額は当時の日本のGDPの1%以上だったといわれています。
 その具体的なものの一つが「国際文化会館」の創設です。日米
の財界人の交流を目的としたもので、ロックフェラー財団が密か
に選定した日本人のメンバーによって、プランニングが進められ
たといいます。メンバーとしては、英語が堪能で、多くの機関に
顔が効く人物が選ばれているのです。国際文化会館の場合は、次
の8人が選定されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.樺山 愛輔     5.松本 重治
     2.渋沢 敬三     6.藤山愛一郎
     3.高木 八尺     7.一万田尚登
     4.前田 多門     8.坂西 志保
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、単に英語が堪能というだけでなく、戦前から日米関
係を重視し、民主主義や自由という米国の価値観を共有し、フィ
ランソロピー(慈善活動)に直接かかわった人物としては、松本
重治と坂西志保がいます。とくに松本重治は、ロックフェラー3
世の親友として知られています。
 また、樺山愛輔は、海軍大臣・樺山資紀の長男で、米国および
ドイツに留学。戦後は枢密顧問官に就任しています。高木八尺は
新渡戸稲造、内村鑑三の弟子で、松本重治らと日本アメリカ協会
の創設に尽力しています。
 前田多門は内務省から閣僚になった人物で、後にソニーになる
東京通信工業の初代社長を務めています。藤山愛一郎は藤山雷太
の長男で、財界の中心人物になり、後に政治に転じ、岸内閣で外
務大臣を務めています。
 金融界からは、渋沢啓三と一万田尚登の2人がいます。渋沢敬
三については詳しく述べましたが、一万田尚登は日銀総裁と大蔵
大臣を務め、日銀の独立性を勝ち取ろうとした人物です。
 いずれにせよこれらの人脈は、ロックフェラー財団と深い関係
を持っているのです。当初の方針に反し、日本を工業国として再
生させる「逆コース」を成功させるため、「文化交流」の名の下
に日本の知識階層を親米派にする狙いがあったのです。米国の日
本支配の系統には次の2つがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.日本銀行の総裁の系統を押さえる
      2.日本の財界の中枢を親米派にする
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 第1の系統は「日本銀行の総裁の系統を押さえる」ことです。
 これは、中央銀行のトップがその国の実質的な「王」であるか
らであり、それを押さえることによって、その国を実質的に属国
にできるのです。これは、これまで見てきたように、戦前から一
貫して続いてきているのです。
 具体的には、新木栄吉、一万田尚登と引き継がれ、佐々木直、
前川春雄、三重野康、福井俊彦と続く「円のプリンス」の人脈を
押さえることによって、日本を実質的に支配するのです。
 第2の系統は「日本の財界の中枢を親米派にする」ことです。
 ロックフェラー3世ととくに親しかった松本重治は、松本の母
方の祖父が松本正義であり、「王」の系譜につながる人物のひと
りなのです。
 山本正は、ロックフェラー3世の没後、財閥当主になった3世
の弟のデイヴィッド・ロックフェラーと親しく、「日本国際交流
センター」を主宰し、日米財界人の交流を促進させた人物として
知られています。山本正は、渋沢栄一につらなる人物であり、渋
沢家4代目の当主である渋沢雅英と姻戚関係にあります。
 このように、人脈についても戦前からの系譜が戦後に綿々とつ
ながってきています。一万田尚登は1946年に日銀総裁になっ
ていますが、最初の渡米のさい、ニューヨーク日銀事務所を開設
し、井上準之助の長男を所員として採用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1回目の渡米の前に、一万田は山田精一氏を渡米させて国際
 通貨基金(IMF)加入の可能性を打診させると共にGHQ方
 面に働きかけて、早い機会に、ニューヨ一クに日銀の事務所を
 設ける計画を進めた。ようやく話がまとまり、外事関係の理事
 加納百里氏に松本重雄氏がついて渡米し、1950年10月、
 ウォールストリートに近いチェース・ナショナル銀行26階に
 日本銀行の事務所が開設された。松本重雄氏がニューヨーク駐
 在の参事として初代の所長となり、その下に井上準之助元総裁
 の長男で若手のホープ井上四郎氏が勤務した。──井上素彦著
         『「非常時の男」一万田尚登の決断力』より
     ──吉田祐二著/『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/57]

≪画像および関連情報≫
 ●「ペンペン草を生やしてみせる」/一万田尚登日銀総裁
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  川崎製鉄の社長西山弥太郎が1950(昭和25)年、「千
  葉に製鉄所を造る」と発表したとき、当時の日本銀行総裁、
  一万田尚登が「川崎製鉄が千葉工場建設を強行するならば、
  ペンペン草を生やしてみせる」と言ったと伝えられている。
  川崎製鉄は企業再建整備法に基づく整備計画により、川崎重
  工業(株)の製鉄部門を分離独立し「川崎製鉄株式会社」とし
  て資本金5億円で設立された。初代社長に西山弥太郎就任。
  これが1950年8月。就任3ヶ月後の1950年11月、
  西山は通産省に請願書を提出。千葉に総工費163億円規模
  の銑鉄一貫工場建設の計画が示されていた。東京湾の一角を
  埋め立てての工場建設という思い切った計画も大胆ならば、
  当時の川崎製鉄の資本金は5億円でしかなかった。それだけ
  の資本金の会社が、建設費の半分の80億円を国からの融資
  (見返り資金)に求めるものであったから、当時の産業界の大
  きな話題になった。西山は政府の財政資金に頼るため、当時
  の日銀総裁一万田尚登に話を持っていく。一万田は「あまり
  にも計画は大きすぎる。とても無理な計画だ」と言って話に
  乗らない。一万田は第三者に千葉製鉄所のことを聞かれて、
  露骨にイヤな顔をして、「いま日本で大製鉄所は成り立たな
  い。アメリカは技術が格段にすぐれ、鉄鉱石も原料炭もすべ
  て安い。日本が遠くから運んで来ても失敗するに決まってい
  る。製鉄所の屋根にペンペン草が生えても知らないよ」と言
  った。この発言が増幅されて、「一万田はペンペン草を生や
  してみせると言った」と伝えられた。
                   http://bit.ly/1rWorvu
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山本正氏.jpg
山本 正氏
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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