大な影に押しつぶされるように遊蕩の世界に溺れ、ついには渋沢
家から廃嫡処分を受けるという悲劇的人生を送っています。
そのため、渋沢栄一は篤二の長男、つまり孫の敬三を跡取りに
しようとしたのです。しかし、敬三は学者の世界に進み、動物学
や民俗学の研究をする夢を持っていたのです。
そういう19歳の敬三に対し、75歳の栄一は羽織袴の正装で
頭を畳にすりつけんばかりにして次のように懇請したのです。
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どうか私のいうこと聞いてくれ、この通りお頼みする
渋沢栄一
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後で敬三の語ったところによると、強制するわけではなく、た
だただ孫に頭を下げて頼む祖父を見て、とても断れる状況ではな
かったと述懐しています。敬三の長男である雅英の著作『父・渋
沢敬三』にはそのときのことが次のように書かれています。
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栄一は強圧しなかった。しかし、誠心誠意若い孫に懇請した。
「とても悲しかったよ。悲しくてしょうがなかった」と、父は
言った。自分の一番好きな道、もっとも生甲斐とあこがれを感
ずる道に行くことができないのが淋しかった。今の世の中なら
父の立場も違っていただろう。また、もし篤二が健在で、父が
普通の意味での三代目だったら、自分の希望を通していたかも
しれない。「命令されたり、動物学はいかんと言われたりした
ら僕も反撥したかもしれない。おじいさんはただ頭を下げて頼
むと言うのだ。七十いくつの老人で、しかもあれだけの人に頼
むと言われるとどうにも抵抗のしようがなかった」。
──吉田祐二著
『日銀/円の王権』/学習研究社刊
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銀行家としての渋沢敬三は、大学卒業後に横浜正金銀行に入行
します。ロンドン支店で3年間を過ごし、30歳のときに第一銀
行に入行しています。
このとき敬三としては、第一銀行に骨を埋めるつもりでいたの
です。既に敬三は取締役として昭和2年の恐慌や金解禁の荒波を
乗り切り、銀行家としてのキャリアを重ねていたからです。しか
し、そうはいかなかったのです。当時枢密顧問官の池田成彬が隠
然たる力を持ち、画策したからです。
1942(昭和17)年に敬三は池田に請われて、日銀の副総
裁になります。そのときの日銀総裁は結城豊太郎であり、既に7
年間も総裁の地位にあったのです。
戦時中の日銀総裁というのは、戦費調達のために赤字国債を無
制限に引き受けるしかなく、日銀総裁として力量を振るうことな
ど、ほとんどできなかったのです。終戦1年前の1944(昭和
19)年に敬三は日銀総裁になるのです。というより、無理やり
させられたというべきだったでしょう。敬三はそのときの心境を
終戦後のテレビのインタビューで次のように語っています。
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あの時は賀屋(引用者注・・興宣)大蔵大臣から、是非日銀総
裁になれと──丁度、山内静吾って方が副総裁で、胃かいよう
で余命もう幾許もないというので、白羽の矢が立ったんですが
──その裏を私はよく存じませんでしたけれども、池田成彬さ
んがね、どうも進めたらしいんですね、大分前から池田さんは
目を付けて、私をいろんなものに仕様とした、私、皆お断りし
ていた、これも完然にお断りしたんです。──そうした所が、
どうも済みませんでね、それで、とうとう、東条さん──当時
の総理ですね──やって来いっていいましてね、仕方がないか
ら行きましたよ──その前の晩に皆と相談して行く事に決めた
んです──それもサーベルをガチャガチャさせて──まア、強
姦ですね、あれは・・・。 ──『渋沢敬三先生景仰録』より
──吉田祐二著
『日銀/円の王権』/学習研究社刊
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そして、終戦後の1945(昭和20)年9月、敬三は幣原内
閣の大蔵大臣に就任するのです。そして、その翌年に連合国最高
司令官、マッカーサー将軍の命による預金封鎖──旧円を新円へ
の切り替えなどの終戦処理を敬三は大蔵大臣として事態の収拾に
当たったのです。
渋沢敬三が次の日銀総裁に指名したのが、新木栄吉です。実は
敬三は自身の日銀総裁の就任に当たり、池田にひとつ条件をつけ
ているのですが、それが新木栄吉の日銀副総裁の就任なのです。
敬三と新木は旧知の仲であり、当時新木は日銀の代表として南京
の経済顧問をしていたのですが、それを呼び戻して副総裁に就任
させたのです。
そして敬三は、自分が幣原内閣の大蔵大臣になるときに新木を
日銀総裁に引き上げています。このようにして、新木栄吉は戦後
初の日銀総裁になるのです。
ここで話は、2014年7月8日のEJ第3828号に戻るの
です。新木は就任後7ヶ月で追放になりますが、1952(昭和
27)年に駐米大使に就任しています。これはあらかじめ決めら
れていた路線なのです。新木の後任の一万田日銀総裁と新木駐米
大使──米国はこれによって日本をコントロールしようと考えて
いたからです。 http://bit.ly/1msV1Uu
実は、新木栄吉が追放開けに駐米大使になったのには、ロック
フェラー3世の後押しもあったとされています。敬三の『新木栄
吉氏の思い出』によると、ロックフェラー3世は、新木の大使着
任の前に着任日を本人に直接問い合わせ、ニューヨークで歓迎会
を開いています。このことは、新木はロックフェラーをはじめ、
ニューヨークの財界でいかに信望が厚かったかを示すものである
といえます。 ──[新自由主義の正体/56]
≪画像および関連情報≫
●「新木栄吉氏の思い出」/渋沢敬三談話集より
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時たまたまロックフェラー三世が日本に来ておられて、その
こと(新木が駐米大使になること)を聞かれまして非常に喜
ばれ、そうしてすぐ石川県の小松へロックフェラー三世が自
ら電報を打ちまして、まだアグレマン(引用者註−大使や公
使を派遣するに当たって事前に接受国に求める同意)も来て
いないとき、「あなたが大使になって来られたらニューヨー
クの財界はあげて大歓迎をする。ついてはあなたの日取りを
今からいただきたい」と言って、確か六月十七日だったと思
いますが、ニューヨークの財界こぞって大歓迎会を開くとい
う日取りが決まりました。これは空前の珍しいことでござい
まして、まだ大使の本当の任命もない先に、ニューヨークの
財界がこぞって新木大使の歓迎会を──ワシントンで開くな
らわかっているのですが──ニューヨークで新木さんの歓迎
会を開くということになりましたことは、いかに新木さんが
ニューヨーク時代から、またその後ずっとニューヨークの財
界の方々に信望を得ておられたかという証左だと思うのでご
ざいます。 ──『渋澤敬三著作集』より
──吉田祐二著
『日銀/円の王権』/学習研究社刊
追記:新木栄吉は、1922年〜26年、1935年〜37
年に日銀のニューヨーク駐在として勤めている。
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渋沢 敬三元日銀総裁