2014年07月28日

●「渋沢栄一とロックフェラーの関係」(EJ第3841号)

 太平洋戦争を経験している日本人は「戦前」と「戦後」を分け
て考える傾向があります。このように分けてしまうと、「戦前」
と「戦後」は断絶しているように感じるものですが、実は、「戦
前」と「戦後」は連続しているのです。
 とくに実質的な「王」である日銀総裁の人脈は、戦前・戦後を
通じて完全につながっているのです。ここまで、松方正義、高橋
是清、井上準之助、池田成彬について書いてきましたが、これら
の4人は、覇権国の財閥──ロスチャイルド、クーン・ローブ、
モルガン、ロックフェラーと密接な繋がりを持っているのです。
これが戦後の、とくにプリンスといわれた日銀総裁たちにどのよ
うにつながっていくのかについて書いていきます。
 池田成彬がいかに戦前、戦中、そして戦後の経済や政治に影響
力を持っていたかについて書きましたが、終戦時の日銀総裁は、
池田が指名した渋沢敬三だったのです。渋沢敬三は、あの渋沢栄
一の孫なのです。なぜ、長男でなくて孫なのか──これには理由
があるのです。
 渋沢栄一は徳川慶喜が将軍になったのに伴い幕臣となり、慶喜
の弟の徳川昭武に随行してパリ万博を視察したことは既に述べて
います。役職は「後勘定格陸軍付調役」です。なお、渋沢がフラ
ンスに滞在中に役職は「外国奉行支配調役」になり、語学修得の
必要性を感じた渋沢は、シーボルトの長男でパリ視察団の通訳を
務めたアレクサンダーについて帰国後も語学を勉強し、マスター
しています。
 その後慶喜から暇をもらい、フランスで学んだ株式会社制度を
実施するため、商法会所を設立します。1869年1月のことで
す。しかし、大隈重信に説得され、同年10月に大蔵省に入省す
ることになるのです。そして、大蔵官僚として、第一国立銀行の
設立などを指導する仕事を行っています。
 しかし、予算編成をめぐって大久保利道や大隈重信と対立し、
1873年に大蔵省を退官しています。そのとき、渋沢と一緒に
退官したのが、井上馨です。
 大蔵省を退官した渋沢栄一は、大蔵省時代に指導していた第一
国立銀行の頭取に就任します。この第一国立銀行は、その後第一
銀行、第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行になるのです。
 以後渋沢は、一貫して実業界に身を置き、七十七国立銀行をは
じめ多くの地方銀行の設立に関与し、また多種多様の企業の設立
にも携わり、その数は500社を超えるといわれています。その
ごく一部を上げると、次のように有名企業がズラリです。
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     1.東京瓦斯
     2.東京海上火災保険
     3.王子製紙(現王子製紙・日本製紙)
     4.田園都市(現東京急行電鉄)
     5.秩父セメント(現太平洋セメント)
     6.帝国ホテル
     7.秩父鉄道
     8.京阪電気鉄道
     9.東京証券取引所
    10.キリンビール
    11.サッポロビール
    12.東洋紡績など
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 渋沢栄一は歴史上の人物として小説などの題材になっています
が、還暦を過ぎてから4回も訪米していることは、あまり知られ
ていないのです。今と違ってそのときは、日本から米国へは汽船
で2週間の旅であり、旅費もサラリーマンの平均給与が、20円
〜30円程度のときに約1000円もかかったのです。
 第1回の訪米は1902年であり、時の米大統領セオドア・ル
ーズヴェルトに会っています。最後の訪米は1921年であり、
そのとき渋沢は81歳であったといいます。
 1909年に渋沢は「渡米実業団」を組んで渡米しています。
注目すべきは、そのとき渋沢が「石油王」といわれたジョン・D
・ロックフェラー一世に会い、親しく懇談していることです。オ
ハイオ州クリーブランド市の商工会議所主催の晩餐会においてで
す。東京商工会議所編「渋沢栄一/日本を創った実業人」(講談
社)では、そのときの様子を次のように書いています。
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 ロックフェラー一世は一風変わった人物で、かつて晩さん会な
 ど社交の場に出席したことがなかった。それまでの25年間に
 宴席に出たのはただ一回。竹馬の友マッキンレー大統領が殺さ
 れて、同市で記念祭がおこなわれた際に顔を出したきりであっ
 た。だから案内人は「今日は皆さんに感謝してもらわなければ
 ならない」とつけ加えるのを忘れなかった。会場に着くと大珍
 客は接待委員に交じって皺くちゃの梅干顔で一行を迎え、渋沢
 と食卓をともにし、通訳を通じて歓談した。二人の歓談の内容
 は経済や経営のことではなく、もっぱら社会慈善事業や学校教
 育について話し合った。(中略)二人の席から遠くにいあわせ
 た人々、とくに米国人は二人が何を熱心に話し合っているのか
 と不思議そうに眺めていたそうである。世間ぎらいで通ってい
 たロックフェラーが珍しく出席したのは、おそらく渋沢が日本
 での大実業家であると同時に大慈善家であることも聞いていて
 会って話したい気になったのに違いない。  ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
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 吉田祐二氏は、ロックフェラー一世に会った日本人は渋沢栄一
しかいないのではないかといっています。渋沢の影響力は、一線
を退いた1920年頃から衰え始め、やがて渋沢よりも30歳も
若い世代──池田準之助、池田成彬、団琢磨、串田万蔵、藤山雷
太、郷誠之助などに移って行ったのです。
               ──[新自由主義の正体/55]

≪画像および関連情報≫
 ●資本主義と儒学―渋沢栄一『論語と算盤』/田中修氏
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  大蔵省勤務時代の渋沢には次のようなエピソードがある。あ
  る日の夕方、神田猿楽町の彼の自宅に西郷隆盛参議がふいに
  尋ねてきた。用件は、相馬藩の興国安民法の処置についてで
  あった。興国安民法とは、二宮尊徳が相馬藩に招聘された時
  に作った財政・産業政策で、相馬藩繁栄の礎となったもので
  ある。井上馨や渋沢が財政改革を行うに当たり、この興国安
  民法の廃止が議論に上がっていた。これを聞きつけた相馬藩
  では、藩の消長に関わる由々しき一大事ということで、富田
  久助・志賀直道2名を上京させ、西郷参議に興国安民法を廃
  止せぬよう陳情した。西郷はそれを容認したが、大久保利通
  ・大隈重信・井上馨に話しても相手にされそうにないので、
  渋沢を説き伏せようと考えたのである。西郷は渋沢に対して
  以上の次第を述べ、せっかくの良法を廃絶させるのも惜しい
  のでこの法の立ち行くよう尽力してもらいたいと要請した。
  しかし渋沢が法の内容を尋ねたところ、西郷は「それは一向
  に承知しない」という。そこで渋沢は、興国安民法について
  事前に十分調べていたので、概略を説明した。二宮尊徳は相
  馬藩に招聘されるや否や、まず同藩の過去180年間におけ
  る詳細な歳入各年統計を作成し、これを歳入額の多寡により
  60年ずつの3グループに分類した。その中位グループ60
  年の平均歳入を同藩の歳入基準としたのである。次にこの各
  年統計を歳入額の多寡により90年ずつの2グループに分類
  し、うち額の少ない90年のグループの平均歳入額を藩の歳
  出基準とし、毎年の歳出はこれを上回らないこととさせた。
                   http://bit.ly/1pOSiUu
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渋沢栄一翁.jpg
渋沢 栄一翁
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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