2014年07月25日

●「池田成彬とオーエン・D・ヤング」(EJ第3840号)

 ここまで見てきたように、世界覇権国の金融資本の支配者は、
ロスチャイルド商会、クーン・ローブ商会、モルガン商会、そし
てロックフェラー財閥へと変遷してきています。それぞれのカウ
ンターパートとして、ロスチャイルドは松方正義、クーン・ロー
ブは高橋是清、モルガンは井上準之助がなっていますが、ロック
フェラーのカウンターパートは誰なのでしょうか。
 それは池田成彬です。池田は、オーウェン・D・ヤングのカウ
ンターパートなのです。オーウェン・D・ヤングとは何者なので
しょうか。
 オーエン・D・ヤングとは、米国の財政家であり、経営者であ
り、外交官です。1919年にGE、ゼネラル・エレクトリック
から分離するかたちで、RCAを創立し、1929年まで会長を
務め、さらに1922年から1939年までゼネラル・エレクト
リックの会長を務めた人物です。
 外交官としては、第一次世界大戦終結後、ドイツ賠償委員会に
参加し、ヴェルサイユ条約に基づくドイツの賠償返済を円滑に進
めるべく1924年にドーズ案をまとめるのに尽力しています。
その後、1929年に同委員会の議長になり、さらに賠償額を減
額したヤング案を成立させたのです。
 その功績は高く評価され、同年に「タイム」誌のマン・オブ・
ザ・イヤーに選ばれています。そして、翌1930年にはドイツ
の賠償金支払いを統括する国際決済銀行を設立しています。なお
ヤングは1942年から1945年までGEの会長を再び務めて
います。GEとは切っても切れない関係にあったのです。
 池田成彬は、オーウェン・D・ヤングに1922年に会ったこ
とを『財界回顧録』で次のように書いています。吉田祐二氏の本
から引用します。(一部省略一部編集)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヤング・プランで有名なあのオーエン・ヤングという人、私が
 あの人に会ったのはパリーでヤング・プランの会議のときに一
 二遍でした。しかしそのとき、深くは話さなかった。ところが
 ニューヨークにいってG・E(ジェネラル・エレクトリック)
 社長のスゥオープに逢うと(彼が社長でヤングは会長)スゥオ
 ープは私に「あなたとヤングとゆっくり話をして貰いたい。自
 分の別荘へ(日曜だったと思うが)きてくれ。ほかの人は呼ば
 ないから、二人だけでゆっくり話してくれ」という触れ込みで
 す。私はベルリン、ロンドン、パリー、ニューヨーク、主なる
 ところを渡り歩き、政治家には会わないが、銀行家や企業家や
 実業家の人たちに多く会っておる。この数多い中で偉いと思っ
 たのはヤングですね。どこが偉いかといわれると困るが・・。
 この人は身体も大きく、いうことがはっきりしており、何とな
 く信頼できるような心持ちがしました。不思議なひとです。人
 をひきつけるようなところがあった。芝浦の関係で日本にもき
 たことがあります。            ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、GEといえばモルガン系の企業です。それがどうして
ロックフェラーに結びつくのでしょうか。
 実はオーエン・ヤングは、GEの会長でありながら、1928
年〜1939年まで、ロックフェラーの財団理事を務めていたの
です。つまり、両天秤をかけていたのです。当時の日本は、井上
準之助をはじめモルガン家からの情報に依存していたのですが、
池田成彬はロックフェラーとのコネクションをつくり、先行した
情報を持っていたことになります。
 オーエン・ヤングがGEやRCAで経営者として手腕を振るっ
たように、池田成彬も三井銀行をベースに銀行家として地位を築
くとともに、日本の政治にも影響力を発揮したのです。池田はロ
スチャイルドやロックフェラーの財閥人と付き合うようになって
学んだことが多くあるといっています。そのなかで三井に在籍中
に力を入れたのは、慈善事業です。1933年には「財団法人三
井報恩会」を設立し、慈善事業を推進しています。「財閥は悪い
ところを見せてはいけない」ことを学んだからです。
 池田は三井を定年で離れたあとで、短い期間ですが、日銀総裁
と大蔵大臣をやっています。日銀総裁在任期間中は「参与理事制
度」を新設し、財界からの代表者が日銀で議決権を持って発言で
きる仕組みを作っています。今でいう社外取締制度です。
 その池田を尊敬していたのは吉田茂元首相です。終戦直後に吉
田は、池田を占領軍との交渉窓口である連絡事務局の長官に就任
させようとしたのですが、池田に戦犯容疑がかかっていたため、
実現しなかったのです。
 しかし、吉田は何かと池田に相談していたことが、いろいろな
書籍からわかっています。今村武雄著『池田成彬伝』には、吉田
に関する次の記述が残っています。ちなみに、吉田の大磯の自宅
は有名ですが、池田も大磯に自宅を持っていたのです。これを読
むと、吉田が池田をいかに尊敬し、信頼していたかがよくわかる
と思います。吉田茂の述懐です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 週末は、かならず大磯にくるという原則を立てまして、この原
 則は、厳守いたしておったのであります。したがって、一週間
 に一度はかならず暇があれば大磯にきておったのであります。
 その往復のたびごとにここ(池田邸)へ出て、池田さんから、
 おみくじを引くことにいたしておったのです。(中略)池田大
 明神のおみくじを引いたうちには、人事の問題がずいぶんたく
 さんあり、この人はどうだろう、あの人はどうだろう、これに
 対して、池田さんはなんら私心がなく、ごく遠慮のない批判を
 して下すって、そのおかげでもって、私も非常に迷うところな
 く、決定することができたのであります。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/54]

≪画像および関連情報≫
 ●池田成彬という男にみる、つまるところ自分次第の理。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (池田成彬は)、吉田茂の経済政策指南役を務めた後、昭和
  25年(1950年)、享年83歳で没・・・という人なの
  ですが、没後、半世紀以上経つ今となっては、なかなか、知
  る人もいないでしょうか。この池田成彬ですが、実は、彼は
  ときの三井の大実力者にして、福澤諭吉の甥、中上川彦次郎
  三井銀行専務理事の長女を妻に迎えています。そう聞けば、
  普通、「なんだ、大実力者の娘婿だから、トントン拍子に出
  世したのか・・・」などと考えがちですが、実は、池田が中
  上川の娘を嫁に迎えた時点では、中上川はすでに失脚寸前で
  あったらしく、つまり、打算で考えれば女婿になることは最
  悪の選択肢だったわけですね。実際、中上川はその結婚から
  間もなく失脚し、失意のうちに病死しており・・・。こうな
  ると、バック・アップどころか、池田は、「あの中上川の娘
  婿」という色メガネの元で、日々の勤務しなければならなか
  ったわけです。そして、新たな三井銀行の専務理事には、大
  蔵省から三井に迎えられた早川という人物が就任し、これで
  誰の目にも、「不遇を囲う・・・」と思われていたところ、
  いつの時代でも、結局、誰よりも業務に精通し、誰よりも気
  骨のある人物というものは、なかなか、ないがしろに出来難
  いもののようで、池田は失脚するどころか、気が付けば、逆
  に「池田専務、早川部長」と揶揄される状態になっていたと
  か・・・。            http://bit.ly/1kL9Xto
  ―――――――――――――――――――――――――――

オーエン・D・ヤング.jpg
オーエン・D・ヤング
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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