準備銀行それぞれが独立性を保ち、なかでもニューヨーク連邦準
備銀行が最大の権限を握っていたのです。この銀行はモルガン家
の所有物だったのです。
ルーズヴェルト大統領が仕掛けた1934年の連邦準備制度の
改革について、吉田祐二氏はロン・チャーナウの『モルガン家』
より、次の引用をしています。
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モルガン財閥に対し、最も手のこんだ攻撃をかけてきたのは、
連邦準備制度の改正を求めた人々だろう。1934年、ユタ州
の青年実業家のマリナー・スタッダード・エクルズが、ルーズ
ヴェルト政権に、連邦準備法の改正を勧めた。改正の趣旨は、
ウォール街銀行家の影響力を連邦準備制度から一掃するため、
ニューヨーク連銀の持つカを取り上げてそれをワシントンの連
邦準備局に移すというものだった。(中略)成立した同法に基
づいて、全国十二の地区に置かれている連邦準備銀行は、従来
の独立権限の大部分を奪われ、七名の理事から成るワシントン
の連邦準備制度理事会に実権を握られた。この改正で、二つの
点で連邦準備制度の新たな独立性が強調された。一つは、財務
長官が理事の地位から外されたことで、もう一つは、それまで
財務省内にあった連邦準備制度が独立の建物を得たことだ。
──吉田祐二著
『日銀/円の王権』/学習研究社刊
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これが現在の連邦準備制度の体制なのです。12の連銀から取
り上げた金融政策の権限を7人が握ることになったのです。金融
政策の地方分権から中央集権への移行です。メンバーは議長・副
議長を含めた7人で、任期は14年。FRB議長については大統
領の指名と上院における承認というプロセスを経たうえで、7人
のメンバーの中から選出されるという体制です。
こういう体制になると、連邦準備銀行を支配していたモルガン
財閥は力を失い、ワシントンの連邦準備制度理事会に実権を握ら
れることになるのです。この連邦準備制度改革を主導したのは、
ルーズヴェルト大統領ですが、それをバックアップしたのはロッ
クフェラー財閥なのです。
それでは、ルーズヴェルトとロックフェラー財閥とはどのよう
に結びついていたのかというと、どのような資料を調べても直接
的なつながりを示すものは何もないのです。ただ、ルーズヴェル
トとロックフェラーは、マッケンジー・キングなる人物を通じて
間接的につながっているのです。
マッケンジー・キングは、カナダの首相を1921年から19
48年まで約30年にわたって、断続的であるが務めたカナダの
支配者といわれる人物です。このマッケンジー・キングは、19
11年から17年にかけて、ロックフェラー家に「居候」をして
いたことがあるのです。
マッケンジーは、とくにジョン・D・ロックフェラー2世と親
しく、2世の息子のデイヴィッド・ロックフェラーの『回顧録』
にも、マッケンジーに関する次の記述があります。
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長年のあいだ、わたしはウイリアム・ライアン・マッケンジー
・キングに心酔していた。ラドローのストライキの直後にいっ
しょに働いたことがきっかけで、父の親友になった人物だ。キ
ング氏はのちにカナダ自由党の重鎮となり、1935年には三
度目となる首相の座に就いた。ニューヨークに来るとよく両親
のもとに滞在し、シールハーバーを訪れたこともある。いつも
温かく親しみやすい態度で接してくれるので、言葉を交わすと
気持ちが落ち着いた。 ──吉田祐二著の前掲書より
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ここで「ラドローのストライキ」とは1914年にロックフェ
ラーの傘下の炭鉱で起こったストライキのことで、それを強引に
潰そうとしたロックフェラー家と炭鉱労働者の間の紛争で多くの
死者が出たのです。この事件は、世間では「ラドローの虐殺」と
呼ばれ、ロックフェラー家の評判は地に落ちたのです。このとき
の問題解決に尽力したのがマッケンジーなのです。
それでは、マッケンジーとルーズヴェルトはどうつながってい
たのでしようか。
吉田祐二氏は、アメリカの通史を書いたサムエル・モリソンの
『アメリカの歴史5』より、次の記述を引用しています。
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マッケンジー・キングは、1935年4月に再度カナダ首相に
なり、さらに二度の総選挙と第二次世界大戦を通じて、13年
間首相の職にあった。穏やかで内気な態度の絶対独身主義者で
弁舌は決してさわやかでなく、指導者の属性といってはほとん
ど備わっていない、この短身でずんぐりした男は、それでも、
すぐれて鋭敏な政治家だった。(中略)キングがアメリカで職
にあったあいだにお互いに知り合ったマケンジー・キングとフ
ランクリン・D・ルーズヴェルトは、いまでは、個人的に親し
い友人同士になった。(中略)1938年8月、オンタリオ州
のキングストンにおいて、ローズヴェルト大統領は、「もしカ
ナダの国土の統治が他の国に脅かされることがあれば、アメリ
カ合衆国国民は黙っていないだろう」と約束した。
──吉田祐二著の前掲書より
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吉田氏は上記の記述のなかで「キングがアメリカで職にあった
あいだに」に注目すべきであるといっています。この期間は19
11年から17年であり、マッケンジーがロックフェラー家に居
候をしていた時期です。この事実からこの時期にロックフェラー
家とルーズヴェルトの接触は間違いなくあったものと考えられる
のです。ニュー・ディールとは、ロックフェラーとルーズヴェル
トの新しい契約なのです。 ──[新自由主義の正体/53]
≪画像および関連情報≫
●「ラドローの虐殺」とは何か/ウィキペディア
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1913年9月、コロラド州ラドローの鉱夫たちがストライ
キを呼びかけた。しかし彼らの親会社は、ロックフェラー家
がオーナーである、当時最も規模の大きい鉱山会社だった。
1914年4月20日、警備員たちがストライキをしていた
鉱夫たちやその家族の住むテントを襲撃し、26人の死者が
出る。ストライキ中、バークマンは鉱夫たちの支持を得て、
ニューヨークでデモを行った。5月と6月には他のアナキス
トたちとともにジョン・ロックフェラー・ジュニアへの複数
の抗議デモを主導した。抗議活動はしだいにニューヨーク中
心地からロックフェラー家のお膝元であるテリータウンへと
広がる一方で、相当な数のアナキストが暴行を受け、逮捕・
監禁された。テリータウンで示された警察の強硬な姿勢は、
フェラー・センターに集うアナキストたちによる爆破計画へ
とつながった。7月、バークマンの仲間3人がダイナマイト
を調達し、やはり彼に同調していたルイーズ・バーガーの住
むアパートに投げ込んだ。彼らによれば、バークマンが指導
的な立場にあり、グループ内で最も年長であり経験もあった
という。後にバークマンは計画への関与を否定している。7
月4日9時、ルイーズがエマ・ゴールドマンの事務所に出か
けた。その15分後、大爆発が起こる。爆弾が爆発し、ルイ
ーズの住む6階立てのアパートが震え、3階から先は大破し
た。ダイナマイトを仕掛けた3人は全員死亡し、もう1人の
女性が亡くなった。彼女は明らかにこの事件の共謀者ではな
かった。バークマンは、亡くなった人間の葬儀を手配してい
る。 http://bit.ly/1yNTs7X
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マッケンジー・キングカナダ元首相