2014年07月16日

●「井上準之助とモルガン商会の関係」(EJ第3834号)

 松方正義のもう一人の後継者は井上準之助です。高橋是清が欧
州のロスチャイルド家および米国のクーン・ローブ商会のカウン
ターパートならば、次世代の井上準之助はモルガン商会のカウン
ターパートであるといえるのです。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、クーン・ローブ商会と
モルガン商会は、金融資本の世界で激しい競争を繰り広げたので
すが、1907年10月の米国での金融恐慌を契機に、クーン・
ローブ商会は力を失っていくのです。
 1909年に中国に対する第1回の借款団を結成したときのこ
とです。クーン・ローブ社はこれまで独壇場だった外債引き受け
の役割をあっさりとモルガン商会に引き渡してしまったのです。
このようにして、当時の覇権国であった英国から、米国へ覇権が
移って行く過程で、モルガン商会が優位に立ったのです。
 井上準之助は日銀の生え抜きであり、高橋是清の下で、順調に
キャリアを積み重ねて、1919(大正8)年に日銀総裁に就任
しています。日銀生え抜きで初めて日銀総裁になった人物です。
その次の年の1920年に、中国に対する日米英仏の新四国借款
をまとめたときに、モルガン商会のトマス・ラモントに会ってい
ます。井上とラモントの付き合いはここからはじまったのです。
このときは既に米国の金融資本の支配的な地位をモルガン商会が
占めており、井上はモルガン商会のカウンターパートになってい
くのです。
 井上準之助とトマス・ラモントは、お互いに相手を高く評価し
ていたことがいろいろな文献によってわかります。NHK取材班
のまとめた『金融小国ニッポンの悲劇』(角川文庫)には、ラモ
ントが井上をどのように見ていたかがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼(井上)はリアルマンだ。日本において提携すべき最後の人
 物だ。井上はノーマン(イングランド銀行総裁)やストロング
 (ニューヨーク連邦準備銀行総裁)やわれわれと同じ金融語で
 を話す。私は彼が正しい線からはずれたのを見たことがない。
 私は彼のいうことを信ずる。        ──吉田祐二著
             『日銀/円の王権』/学習研究社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して、井上準之助がラモントをどのように見ていたの
かを知る記述もあります。『井上準之助論叢5/伝記』に、19
27年にラモントが投資の責任者として来日したとき、彼の来日
目的について井上は次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 先立って米国モルガン商会のラモント氏がやって来たが、あれ
 は噂のような外債のためでもなんでもない。まったく自身で財
 界の様子を見に来たのだよ。あの人が帰る時に「日本は今、最
 重要な時期に立っている。この際は十分な整理が必要である。
 不徹底な整理は再び恐慌を来たさんとも限らぬ。日本も大正9
 年に一切の整理をなすべきであった。米国などは徹底的の整理
 を、あの際に断固としてやってしまったのだが、日本は今まで
 遅れていた訳だ。本年四月のような(引用者註:1927年の
 金融恐慌のこと)実際教育はまったく千載一遇の事であるから
 この際根本的の整理をするように」とくれぐれも俺に忠告して
 くれたが、全く同感だな。それで俺も日本将来のため徹底的に
 やるつもりだから、世間でも目前の事ばかりにとらわれず、百
 年の将来を見て整理をするように努めてもらいたい。どうも日
 本人は少時の辛抱が出来んで、やりそこなう傾向がある。
                ──吉田祐二著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1920年代になると、第1次世界大戦で崩壊した国際金本位
制に各国は復帰しつつあったのです。1929年7月に立憲民政
党の浜口雄幸内閣で井上準之助は蔵相へ就任し、金本位制への移
行を決断するのです。
 問題は、復帰するさい、旧平価(1917年8月まで金本位制
に参加していたときの平価で円高)で復帰すべきか、新平価(当
時の情勢に合わせた平価で円安)で復帰すべきか論争が起きてい
たのです。金本位制下の平価は、基準貨幣の金含有率をもとに各
国貨幣との比較で決まるのです。
 このとき、井上蔵相は旧平価にこだわったために、実勢以上の
高い円レートを設定したのです。旧平価は1929年時点よりも
相当の円高であり、そのため、日本の銀行の貸出量を減らし、金
融を引き締めざるを得なかったのです。そうなると、経済に回る
るおカネは少なくなり、必然的にデフレ不況になります。これが
世にいう「井上デフレ」です。
 そのため民政党内閣は窮地に陥り、浜口首相は11月に右翼に
よって東京駅で襲撃されるのですが、一命を取り留めています。
しかし、1931年4月に浜口首相は辞職し、若槻礼次郎が首相
に就任します。井上は蔵相に留任しますが、12月に閣内不一致
で若槻内閣は総辞職に追い込まれるのです。
 代わって政権に就いたのは犬養毅内閣です。犬養首相は高橋是
清を蔵相に任命します。高橋にとって5度目の蔵相就任です。そ
のうえで犬養首相は解散総選挙を実施し、政友会が議会の多数を
占めることになったのです。
 高橋是清は蔵相に就任すると、最初の閣議で金輸出再禁止を決
定し、金本位制から再離脱します。つまり、井上準之助とは正反
対の経済政策、すなわち、インフレ政策を導入したのです。
 1932年2月9日、井上準之助は選挙への応援演説に向かう
途中の道で、暴漢によって暗殺されてしまいます。そして、高橋
是清も1936年2月26日、226事件で青年将校に暗殺され
てしまうことになるのです。
 この井上、高橋の暗殺によって、ロスチャイルド、モルガン商
会の関係が断絶することになります。これは、松方、高橋、井上
と続いた日銀の系譜に方向転換を迫ることになるのです。
               ──[新自由主義の正体/48]

≪画像および関連情報≫
 ●『高橋是清と井上準之助』/鈴木隆著について
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  第一次大戦中、日本は世界中に市場を獲得した。第一次大戦
  後もこれを確保し続けたい。そのためには輸出品のコストを
  安く、賃金や物価を低く抑えなくてはならない。指導者たち
  が、国民を導くスローガンは、なによりも国民生活は節約を
  財界は整理を、財政は縮小しようということだった。大正、
  昭和の国論、浜口雄幸、井上準之助の節約論の基である。井
  上準之助は「財政、金融の引き締めを続け、金利や円を高く
  維持して、金本位制を守る必要がある」と主張している。つ
  まりは、現在必要なのはデフレ政策だといっている。これに
  対し、高橋是清は「財政を拡張し、金利を下げ、財政金融を
  緩やかに運営して、円を安くすることこそ大切で、金本位制
  は二の次だ」とインフレ政策を主張している。昭和四年(1
  929)七月二日に民政党の浜口雄幸内閣が誕生した。井上
  準之助は大蔵大臣に就任する。最初に日本が金本位制を取り
  入れたのは、松方正義内閣で、明治三十年(1897)であ
  る。大正三年(1914)、第一次世界大戦が始まったとき
  ヨーロッパ諸国は金の輸出を禁止して、金本位制から脱落し
  た。日本も大正六年(1917)、金の輸出を禁止し、金本
  位制から脱落した。昭和四年(1929)七月九日、浜口内
  閣は施政方針の声明書を発表し公式に金解禁の断行を宣言し
  た。実行の障害になるのは、金の流出の恐れである。金解禁
  金の輸出入は自由にするが、金は流出させない。貿易黒字を
  確保し、為替レート、金利を高い水準に維持する。そのため
  には、財政の緊縮が必須、非募債主義をとり、公債の発行は
  せず、減税をする。公債も出さずに、税金も減らすことは、
  国の財政を縮めるしかない。    http://bit.ly/1ybApEp
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井上準之助元日銀総裁.jpg
井上 準之助元日銀総裁
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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