ります。1871(明治4)年のことですが、「岩倉使節団」が
北米と欧州に派遣されたのです。この使節団には、維新政府の要
職である右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利
道、工部大輔・伊藤博文なども含まれていたのです。
しかし、実際は失敗の連続だったのです。無謀な条約改正交渉
の失敗や英国では怪しげな銀行に騙されて大金を失う始末だった
といいます。
ところが、留守を預かった参議・大隈重信は、財政改革に取り
組み、なかなか良い仕事をしていたのです。大隈重信の下でそれ
に携わったのは、次の4人です。
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大蔵大輔・井上 馨
大蔵少丞・渋沢 栄一
租税正・陸奥 宗光
租税権正・松方 正義
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維新の三傑といえば、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利道ですが
大久保利道以外は、日本の国づくりにあまり貢献しているとはい
えないのです。その大久保も1878(明治11)年に他界する
と、佐賀県出身の大隈重信がトップリーダーになったのです。
大隈は、1870年から参議になり、1873年には大蔵卿に
なっています。この大隈の指導のもとに日本最初の銀行「東京第
一国立銀行」が設立されています。これは、米国のファースト・
ナショナル・バンクをそっくり真似をしたのです。例えば、ファ
ースト(第一)ナショナル(国立)バンク(銀行)というように
名前もそっくりです。そして、3年間で百五十三銀行が設立され
そこで許可が停止されたのです。一方で、豪商や旧両替商が私立
銀行を設立しています。三井、三菱、住友銀行はこの時期に設立
されているのです。
国立銀行が私立銀行と異なる最大の特色は、「紙幣発行権」を
持っていることです。当時は、政府が発行していた太政官札や民
部省札が流通していたのですが、それらの紙幣を集め、大蔵省に
引き渡すと公債が発行され、国立銀行は、その分の銀行紙幣を印
刷できたのです。
もうひとつ大隈重信によって「横浜正金銀行」が設立されてい
ます。1879年のことです。なぜ「横浜」かというと、横浜市
中区に本店を置いたことでそう呼ばれるのです。
この銀行は、当時死蔵されていた正貨(正金/ゴールド)を市
中に動員して銀行紙幣と兌換を可能にし、不換紙幣を償却するこ
とが目的の銀行です。これは、大隈重信と福沢諭吉の間で煮詰め
られ、福沢門下生の小泉信吉によって具体化されたのです。
しかし、当時日本にはゴールドが絶対的に不足していたことや
その他の事情によって、この大隈/福沢案は実現させることがで
きなかったのです。その結果、横浜正金銀行は、輸出企業のため
の国際決済を行う金融機関に姿を変えたのです。つまり、外国為
替専門銀行です。これを実現させたのは、松方正義の腹心である
前田正名です。
横浜正金銀行は、1946年にGHQの指示で解体され、東京
銀行に生まれ変わっています。現在の三菱「東京」UFJ銀行の
母体行のひとつです。
横浜正金銀行は、日銀が創設されると、日銀の海外出先機関と
しての機能を果たすことになり、日銀の兄弟銀行として機能する
のです。そのため、横浜正金銀行の頭取を務めると、その後は日
銀総裁になるという人事ルートが慣行化していたのです。高橋是
清、井上準之助は、このコースで日銀総裁になっています。
大隈重信主導の権力構造は、明治14年の政変で大隈が失脚す
ると、薩摩・長州出身者が主導権を握り、薩長藩閥政治の体制が
確立するのです。この体制によって出世したのは、薩摩藩出身の
松方正義です。松方は参議になり、大隈に代わって大蔵卿になっ
たのです。松方はここで温めていた「日本帝国中央銀行」構想を
実現するのです。
松方がフランスに行ったのは1877(明治10)年のことで
す。そこで、フランスのレオン・セイ蔵相に会い、中央銀行設立
についてアドバイスを受けたことは、前号で述べましたが、問題
は松方はなぜフランスに行ったかです。
もともと幕末には、フランスが徳川幕府を支援しており、薩摩
・長州藩には英国がついていたのです。第15代将軍徳川慶喜の
弟である水戸藩最後の藩主・徳川昭武はフランスに留学している
のです。そのとき、会計係として渋沢栄一が随行しています。
徳川昭武はナポレオン3世と謁見し、フランスの王家であるボ
ナパルト家を訪問しています。当時フランスでは、将軍家を王家
としてみなしており、徳川家を王家として扱ったのです。ところ
でナポレオンは「反ロスチャイルド体制」であったのです。
しかし、1970年にフランスは、普仏戦争によってビスマル
ク宰相に敗れ、ナポレオン3世は退位して、第三共和制の時代に
なっていたのです。松方正義がフランスに行ったのは、1877
年ですから、皇帝不在のフランスに行ったことになります。
皇帝のいない国で影響力があるのは、大富豪です。それがパリ
の大富豪・ロスチャイルド家であったのです。当時のフランスは
実質上ロスチャイルド家が支配する共和国であったのです。
レオン・セイはロスチャイルド家の使用人であり、いわば番頭
的存在です。松方正義は、番頭のレオン・セイのアドバイスを受
け入れた時点で、ロスチャイルド家に見込まれたことを意味して
いるのです。
帰国した松方正義は、日本帝国中央銀行を設立した後で、明治
天皇に働きかけて、レオン・セイに旭日勲一等が贈られるように
便宜を図っていますが、これによって当時の日本の権力者とロス
チャイルド家の結びつきが深まったことを意味しています。
──[新自由主義の正体/46]
≪画像および関連情報≫
●「明治14年の政変」とは何か
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1879(明治12)年4月御前議事式・公文上奏式を定めて
御前会議の形式や詔勅裁可の手続きが整えられました。次い
で、陸海軍卿は大元帥である天皇が陸海軍を統帥し、観兵式
や大演習に親臨するなど、軍事に精励することを上申しまし
た。6月三条・岩倉両大臣は、天皇はいかにあるべきかを総
括的に述べた意見書を奏上しました。その内容は天皇と政府
は一体であること、天皇は参議・諸省卿を信頼して直接政務
を聞き、指示を与え、不満な点を指摘ほしいということでし
た。前アメリカ合衆国大統領のグラント将軍が世界周遊の旅
の途中に日本を訪れました。1879年7月4日の最初の天
皇との謁見は形式的なものでした。8月10日天皇とグラン
トの会談が行われました。国会開設問題については、にわか
に国会を開くことは危険で、漸進的に国民を教育することが
必要であるとグラントは述べました。外債は国家にとって最
も避けなければならない事柄だとしました。また、琉球問題
については日本が多少譲歩し、台湾事件以来日本に抱いてい
る清国の不満を和らげるのが得策とグラントは述べました。
1880(明治13)年3月、内閣日則が定められました。朝
9時に大臣・参議以下が出勤し、10時から天皇臨席の下に
大臣・参議が要務を奏上し、火・金曜に各省卿が担当を陳述
し、大体正午に到るというのが定例でした。
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大隈 重信