2007年04月27日

WWW開発者会議開催される(EJ第2070号)

 モザイクの躍進は誰の目にも明らかのことだったのです。イン
ターネットの高速バックボーンの月間トラフィック統計というも
のがあります。バックボーンというのは、複数の支線ネットワー
クを連結する幹線ネットワークのことをいいます。
 大企業のLANを例にとって説明すると、各フロアーに敷設さ
れているのが支線LAN、それらの支線LANを上下に連結する
のが幹線LANです。ビルを上下に背骨のように貫通しているの
で、バックボーンLANというのです。
 それから、トラフィックというのは、ネットワーク上を流れる
情報量――パケット量のことをいうのです。ここでいう高速バッ
クボーンの月間トラフィック統計というのは北米にある高速バッ
クボーンを流れるパケット・トラフィックをプロトコル別に把握
した統計のことです。
 モザイクが最初にリリースされる直前の1993年1月のWW
Wのトラフィックは、このバックボーンのパケット・トラフィッ
ク全体のO.OO2%、インターネットの各種プロトコルの中で
127番目の量だったのです。
 UNIX版のモザイクがリリースされて数ヶ月経過した6月に
は、O.25%の第21位、そして、9月には16位に上昇する
のです。そのときの第1位はFTP――ファイルを転送するプロ
トコルだったのですが、それも長続きせず、WWWのパケット・
トラフィックが第1位を記録するのです。
 同じ1993年の夏のこと、マサチューセッツ州ケンブリッジ
で、WWW開発者会議が開かれたのです。集まったのは24名、
場所はオライリー書店のオフィスであるといわれています。ティ
ム・バーナーズリー、ペイ・ウェイ、マーク・アンドリーセン、
エリック・ビーナ、ルー・モンチェリなどのWWW関連の開発者
が出席したのです。
 そのときの会議の模様について、ルー・モンチェリは次のよう
に伝えています。ルー・モンチェリは当時カンザス大学の学生で
「リンクス」というテキストのみのブラウザの開発者として知ら
れていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マーク・アンドリーセンはほんとうに際立っており、他の人は
 皆、マークの周りに転がっているだけだとはっきりわかった。
 マークが話をすると、誰もが耳を傾けた。このことを意識して
 か、アンドリーセンはほかの出席者のように会議バッチにフル
 ネームと所属団体を書かず、自己紹介の必要はないとでもいう
 ように「マーク」とだけ書いていた。    ――モンチェリ
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会議でアンドリーセンとティム・バーナーズリーと初対面
のはずですが、2人はあまり話をしなかったはずです。脇英世氏
の本には次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティム・バーナーズリーがびっくりしたのは、インターネット
 では饒舌であったマーク・アンドリーセンが会議の場では全く
 寡黙であり、写真も撮られたくないと拒否したことであった。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 実のところモザイクが出てからというもの、ティムの影は非常
に薄くなっていたのです。アンドリーセンがなぜ不機嫌であった
かはわかりませんが、もっとWWWの開発者に対して敬意を表す
べきであったと思うのです。
 なぜなら、ティムがWWWの知的所有を主張せず、技術のすべ
てを公開したからこそ、アンドリーセンたちはモザイクを構築で
きたからです。いまどき不思議な話ですが、インターネットに関
わる重要な開発をした人はその全員がそれをひとりのものにしよ
うとしなかったのです。
 もし、ティムがWWWの技術情報の知的所有を主張していれば
その後のインターネットの大普及によって巨万の富を得ていたと
思われるからです。日本初のホームページの制作者である森田洋
平氏は次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムはWWWを自分ひとりのものにしようとしなかった。同
 時に、あるひとつの会社、またひとつの製品にそれが取り込ま
 れないよう、なるべくニュートラルな形で発展していくよう最
 大限の努力をした。そのおかげで世界中の人が自由にWWWを
 使えるようになったわけです。そういう意味では、ティムはW
WWの生みの親であると同時に、WWW普及の最大の功労者だと
いえま す。                 ―森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はティムはWWWに名前を付けるとき、最初は次の名前を考
えたといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         The Information of Mine
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頭文字を取るとTIMとなります。しかし、妻の勧めでそ
れを取りやめて、WWW――ワールド・ワイド・ウェブにしたの
です。しかし、ティムはWWWの開発者でありながら、博士号を
持っていなかったり、学問的業績がないことからその功績にふさ
わしいポジションを手に入れているとはいえないのです。逆に知
的所有権を強く主張した人の方が多くの人に知られ、尊敬を受け
ているように思うのは私だけでしょうか。世の中って不公平にで
きているのでしょうか。 
―― [インターネットの歴史 Part2/36]


≪画像および関連情報≫
 ・バックボーンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  インターネット利用者の急速な拡大や、ブロードバンド・ア
  クセス・ネットワークの普及にともなう動画像や音楽等大容
  量コンテンツの流通量増加により、インターネット上の大幅
  なトラヒックの増加が予想され、インターネットのバックボ
  ーン回線についても対応が求められている。インターネット
  のバックボーン回線は、電気通信事業者が構築したIP網に
  より構成されている。そのため、インターネットのトラヒッ
  ク増加への対応としては、ISPによるバックボーン回線の
  高速化とIX(インターネット・エクスチェンジ)の増強を進め
  る必要がある。
  http://www.soumu.go.jp/hakusyo/tsushin/h13/html/D1113000.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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