2014年07月10日

●「たすきがけ人事はなぜ失敗したか」(EJ第3830号)

 大蔵省が日銀に提案した大蔵省と日銀で交互に日銀総裁と副総
裁を出す「たすきがけ人事」は、日銀出身の総裁に自分の好みの
人物を次の総裁にする「プリンス選び」を可能にし、人事を不透
明にする悪弊を生んだのです。
 そのプリンス選びによって日銀総裁に選ばれた日銀出身の総裁
は、佐々木直、前川春雄、三重野康の3人です。この3人は日本
にとって本当に重要な時期であった1962年〜1994年に日
本経済の操縦桿を握っていたといえます。
 1980年代のバブルは、一般的には、第25代の大蔵省出身
の澄田智総裁が作り出し、それを強引に潰したのは、第26代の
三重野康総裁である──このようにいわれていますが、事実とか
なり違うようです。
 澄田は表向きは日銀総裁だったのですが、まさにお飾り的総裁
であったのです。重要な決定はすべて三重野副総裁が決めており
澄田に仕事をさせなかったのです。したがって、バブルを生み、
それを強引に潰して日本をデフレに陥れた責任は、日銀の三重野
にあるといっても過言ではないのです。これは、日銀総裁の失政
というよりも、ある意図をもって行われたのです。
 澄田に限らず、第27代の大蔵省出身の松下康雄総裁のときも
日銀幹部は松下に重要な情報を入れず、そのため松下は政府とは
逆のことをやって、「1ドル/80円」という深刻な円高を招い
てしまったのです。
 しかも、松下は1998年に発覚した大蔵省接待汚職事件──
いわゆるノーパン・シャブシャブ事件の責任をとって辞任したの
で、当時副総裁だった福井俊彦も一緒に辞任しています。そのた
め、第28代の日銀出身の速水優が総裁に就任しています。
 この大蔵省接待汚職事件の不祥事で、大蔵省は自粛せざるを得
なくなり、本来は第29代の日銀総裁は大蔵省出身者の番であっ
たのですが、松下の巻き添えを食って辞任した日銀出身の福井俊
彦がなっています。このあたりから、たすきがけ人事そのものが
うまく機能しなくなるのです。偶然とはいえ、日銀の戦略が成功
したといえます。
 要するに、日銀サイドとしては、大蔵省出身の総裁なんて何も
できないお飾り的存在にならざるを得ないということを大蔵省に
知らしめたかったのです。日銀が事務方全般を握っているので、
総裁を生かすも殺すも意のままだったのです。ちなみにこの不祥
事事件の起きた1998年4月から日銀法が改正され、日銀は念
願の独立性を勝ち取ったのです。
 唯一たすきがけ人事がうまく行ったのは、この人事の最初に当
たる大蔵省のドンといわれる森永貞一郎総裁と前川春雄副総裁の
コンビです。この2人の10年間は、高度成長から安定成長への
転換という困難な時期であったのですが、その困難な仕事をやり
遂げています。
 戦後の混乱期を巧みに利用し、GHQにもとりいって、日銀の
権力を固め、佐々木、前川、三重野の3人を起用して、日銀が独
立性を勝ち取れるよう導いたのは、一万田尚登元日銀総裁・蔵相
です。一万田は日銀マンにつねに次のようにいっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい
               ──一万田尚登元日銀総裁
―――――――――――――――――――――――――――――
 この言葉は、逆に日銀の力がいかに強大であるかを示している
といえます。何でもできる凄い力を持っていることを世間には知
られないようにせよといっているのです。歴代の日銀総裁のテレ
ビでの映像を見ると、現在の黒田東彦総裁は別として、いかにも
弱々しく、力がなさそうに見えるのは一万田総裁の遺訓を守って
いるのかもしれません。
 一万田が、なぜ日本の金融界で「法王」と呼ばれるようになっ
たかについては、その銀行の統制方式にあったのです。それは、
「窓口指導」と呼ばれたのですが、これについて既出のリチャー
ド・ヴェルナー氏は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1950年代のはじめには経済は2桁の成長をしており、融
 資の申し込みは、莫大になっていた。1946年6月から19
 54年6月までの8年間、一万田は日銀総裁として、さらに、
 1957年7月から1958年6月までは蔵相として金融界に
 絶大な権力を振るった。
  その銀行信用の統制システムとは、日銀総裁が融資総額の伸
 び率を決定し、それから営業局長と2人で増加分を各銀行に融
 資割り当てをして配分する。このときの営業局長は、もちろん
 佐々木直である。その際、銀行は、大口の借り手の氏名にいた
 るまで細かい融資計画を毎月日銀に提出するよう求められてい
 た。営業局は、信用配分計画(どの銀行にいくら出すかを決め
 る計画書)を作り銀行の融資計画と調整をして銀行に伝える。
 その融資の配分額を聞くために銀行首脳が日銀に行くと、文字
 通り日銀のカウンター、つまり窓口で融資割り当て額を告げら
 れたので、誰がいうともなく「窓口指導」というようになった
 のである。   ──リチャード・ヴェルナー著/吉田利子訳
  『円の支配者/誰が日本経済を崩壊させたのか』/草思社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この「窓口指導」は、やがて時代は低成長経済となり
企業の資金調達方法が変化したため、銀行借入れの相対的減少や
オーバーローンの解消などに伴い、その効果は薄くなり、さらに
は金融機関の自由競争を妨げ、資金配分の効率性を下げるとして
1991年1月から廃止されたのです。
 ところで、日本経済のバブルはどのように発生し、潰れたので
しょうか。これには、日銀が深く関与しているのです。それは、
レーガン政権の1983年の日米円ドル委員会の設置と、あの前
川レポートに関係するのです。これについては、明日のEJでお
話しします。         ──[新自由主義の正体/44]

≪画像および関連情報≫
 ●「国会議員は不勉強である」/一万田元日銀総裁答弁
  ―――――――――――――――――――――――――――
  佐多忠隆君:日本銀行は依然としてこれを金融で調整する方
  策をお採りになつていると思うのですが、その後六月に至り
  まして私達に言わせればむしろ突如として金融政策を変更に
  なったように考えるのですが、こういうふうに突如と変更さ
  れたのじやないか。これが若し突如とされたならば、どうい
  う理由によってそういうふうに突如に変更をなされたのか。
  一萬田尚登君:実は私は安本時代から佐多君が非常な勉強家
  であるということを承知いたしております。(笑声)その佐
  多さんから今のような御質問を受けることは私は非常に意外
  に思う。こういうことを言うのは悪いのですが、それは突如
  とおっしやる。突如というようなことは絶体にない。それは
  今日国際情勢が如何に激しく日々変化しつつあるかというこ
  とを御勉強なさつておれば、日一日或る意味において政策が
  変っても、決してこれを不思議に思うことはないのでありま
  す。それ程かように違うのです。二十四年度はああいう政策
  二十五年度はそういうふうに行くべきでないということは、
  私は勉強が少し足りないと思う。むしろ日本銀行は遅過ぎた
  のではないかというふうに考えて行くのが当然じやないか、
  私はそう考えております。
  佐多忠隆君:日銀総裁から不勉強を指摘されまして誠に恐縮
  なんですが、併し私が突如と申しますのは、私はしっかりし
  た数字を以てお話しておるので、四月、五月には少くともそ
  ういう方向でなかったかと私は数字的に説明ができると思い
  ますが、これらの点になりますと見解の相違でございますか
  ら・・・。(以下、省略)     http://bit.ly/1lS9jtb
  ―――――――――――――――――――――――――――

三重野康元日銀総裁.jpg
三重野 康元日銀総裁
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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