あり、1948年までに決定的に転換したのです。それは中国情
勢の変化をはじめとする冷戦の激化が背景にあります。
マッカーサー日本占領軍司令官は、1947年の史上最大とい
われた「2・1スト計画」を強権的に潰し、日本共産党に対して
対決姿勢を一段と強めたのです。その時点から、米国は占領政策
を見直し、アジア随一の工業力を持つ日本を共産主義からの防波
堤として活用すべきであり、そのためには、日本の経済復興に力
を貸すべきである──このように考えたのです。これは「逆コー
ス」と呼ばれています。1951年の対日講和条約締結までの出
来事について、野口悠紀雄氏は次のように書いています。
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49年総選挙で民主自由党が圧倒的勝利を収め、保守党政権の
支配が始まった。50年には、朝鮮戦争が勃発し、GHQは、
レッドパージを行った。そして、警察予備隊が設置された。そ
れに伴い、自治体警察が廃止された。名称は都道府県警察であ
るが、実態は「旧警察法」以前の制度に逆戻りした。他方では
朝鮮戦争による特需景気によって、日本経済の復興が加速され
た。1951年対日講和条約が結ばれ、52年その発効により
独立が回復された。52年4月、公職追放の7万人を対象とし
た第一次追放解除が行われた。こうして、占領期は終わり、高
度成長の時代に移る。 ──野口悠紀雄著
「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
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実は、マッカーサーによるこの日本占領政策の変更で日本は助
かったのです。どうしてかというと、日本の金融機関が「過度経
済力集中排除法」の適用を免れたからです。
1947年には、この過度経済力集中排除法が公布され、独占
的支配力のある企業は、分割されることになっていたからです。
このなかには金融機関も含まれており、当時の主力行、帝国、三
菱、安田、住友の4行も分割の対象にされていたのです。
しかし、米国の占領政策の変更により、銀行業は指定から外さ
れたのです。ただ、帝国銀行は、新帝国銀行と第一銀行に分離さ
れ、五大財閥銀行については、行名が変更されましたが、その影
響は軽微なものにとどまったのです。
これは、その後の日本の経済の発展に大きく影響したのです。
そのときの日本の経済システムは「間接金融」をとっており、こ
れによって銀行が、日本における金融仲介機能を支配することが
できたからです。もし、主力銀行が分割されていれば、日本の高
度成長はなかったかもしれないほど重要な問題だったのです。
ここで日銀のことについてもふれておく必要があります。日銀
の話から再び「前川レポート」に戻っていきます。戦後初の日銀
総裁は、1945年10月に就任した新木栄吉です。しかし、新
木総裁は、1946年6月に公職追放になり、1951年まで蟄
居を余儀なくされるのです。
その新木栄吉に代わって日銀総裁に就任したのは、一万田尚登
なのです。この一万田総裁は、日銀総裁として優れた仕事をして
後に「法王」と呼ばれるようになる人ですが、新木も一万田も生
え抜きの日銀マンです。
マッカーサー指令部は、この新木と一万田の能力をよく知って
おり、何かと面倒をみたのです。米国の占領体制が続いている間
はGHQの力は強く、日銀総裁や蔵相などの重要ポストの人事に
はGHQは露骨に干渉したのです。米国としては、この2人を押
さえて日本の金融行政に影響を与えようとしたのです。逆に新木
と一万田は、そういうGHQの力を逆に利用して、日銀の悲願で
ある「独立性」を勝ち取ろうとしたのです。
GHQは、この2人を使って巧妙な人事を展開します。公職追
放令が解けた新木を駐米大使に任命したのです。これはきわめて
異例な人事であり、GHQの力が働いたのは明らかです。セント
ラルバンカーを駐米大使にし、日銀総裁の一万田と連携をとらせ
てワシントンとのコミュニケーションの円滑化を図る──きわめ
て高度な米国の戦略です。
一方、一万田は、誰に資金を与えて誰に与えないかを決める絶
対的な権限を駆使して戦後の日本経済を容赦なく動かし、日本経
済を復活の軌道に乗せるという重要な仕事を果たしたのです。こ
のように戦後経済の主導権は、大蔵省よりも日銀が握っていたと
いうことができます。
しかも、1954年になると駐米大使の新木栄吉は日本に戻っ
て再び日銀総裁になり、一万田尚登はなんと蔵相に任命されるの
です。日銀の出身者が蔵相に就任したのは一万田をのぞいて他に
はいないのです。これは、おそらく新木と一万田が米国の力を借
りて実現した人事と思われます。
当時の日銀法によると、日銀は事実上大蔵省の監督下にあった
のです。日銀の業務の大半にわたって、大蔵大臣が指示を行える
ようになっていたからです。一万田蔵相は、このチャンスを利用
して日銀法を改正し、日銀を大蔵省から独立させようとしたので
す。これは一種のクーデターといえます。
しかし、このクーデターは失敗に終ります。大蔵省はこのクー
デター頓挫から反撃に転じ、日銀は政治レベルで優位性を一時失
うことになるのです。大蔵省は、逆に日銀の独走に歯止めをかけ
るため、大蔵省と交互に日銀総裁を出すことを提案し、日銀に承
知させます。このあたりから、大蔵省と日銀の暗闘ははじまるこ
とになります。
クーデターには失敗しましたが、大蔵省と日銀で交互に総裁を
出すというシステムによって、新木や一万田は自らの意思で後継
者を選ぶことができるようになります。そして、この二人によっ
て選ばれたのが佐々木直なのです。どうして選ばれたかというと
佐々木が新木や一万田に非常に忠実だったからです。このように
して、佐々木直、前川春雄、三重野康という日銀のプリンスが生
まれるのです。 ──[新自由主義の正体/42]
≪画像および関連情報≫
●経済人列伝/一万田尚登
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一万田尚登は1946年(昭和21年)から1954年(昭
和54年)まで、8年と7ヶ月日本銀行総裁を務め、(注)
占領軍司令官マッカサ−元帥からも吉田茂首相からも信頼さ
れ、占領下という非常時の日本の経済特に金融面での政策を
担当し、経済界の法王と呼ばれた人物です。一万田の人生の
意義のほとんどはこの時期にあります。この列伝では、主と
して占領下日本の経済政策を概観しつつ、一万田の施策を検
討してみましょう。(注)日銀総裁としての就任期間は最長
です。一万田尚登は1893年(明治26年)大分県野津村
今畑(現野津町)に生まれました。生家は庄屋クラスの豪農
ですが、生活はそう豊かではなかったようです。中学校を卒
業して、本人は師範学校に行って、郷里で学校の先生をした
かったのですが、周囲に勧めで熊本第五高等学校に入り、そ
こから東京帝国大学法学部に入ります。学生時代は「わき目
もふらず勉強」がモット−だったと言われています。中学校
時代に後に社会大衆党を作った麻生久と出会い、無産主義運
動の影響を受けたようです。事実一万田の施策には社会主義
的な傾向があります。1918年日銀入社、5年間ベルリン
に留学し、帰国して京都支店長になります。このとき総裁の
京都宿舎の用意が気に入られず、左遷されて検査役になりま
す。閑職ですが腐らず、検査の対象から落ち度を見つけるの
ではなく、長所を発見すべく努力して、再び認められます。
考査局長などを経て1942年理事になり、名古屋そして大
阪支店長を勤務、やがて終戦になります。
http://bit.ly/1qI4Yk1
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新木/一万田元日銀総裁