2014年07月04日

●「昭和の妖怪岸信介は何をしたのか」(EJ第3826号)

 「日本の官僚は優秀である」とよくいわれます。それは一般論
としていわれることもありますが、本当は、戦前の大不況期に入
省したエリート官僚のことを指していう言葉なのです。そのリー
ダー的存在は、間違いなく岸信介であり、岸を取り巻く何人かの
革新官僚を指しているのです。
 岸信介の名前は、元首相でもあり、現安倍首相の祖父でもある
ので、一定の年齢以上の人は知っているはずですが、彼の戦時中
の活躍について知っている人はあまりいないと思います。
 岸は、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)
を卒業し、学者の道を勧められましたが、官界を選んでいます。
それも学業優秀でありながら大蔵省には入庁せず、二流官庁とい
われていた農商務省に入庁したのです。これは当時岸を知る関係
者にとって謎といわれています。
 当時世界では、第1次世界大戦からの過剰生産が原因で、戦後
不況が起きていたのです。そのとき日本は好景気だったのですが
戦後になってヨーロッパ列強が市場に復帰すると、日本は輸出が
一転して不振となり、余剰生産物が大量に発生し、株価が半分以
下に下落してしまったのです。このとき、銀行の取り付け騒ぎも
起きています。
 こういう背景を受けて、岸は日本経済を何とかしたいと考えて
大蔵省ではなく、農商務省に入省したのではないかと思われるの
です。岸が関心を持っていたのは、計画経済・統制経済です。時
代がそれを要求していたからです。1920年代の日本経済の状
況を次にまとめておきます。
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 1920年代は「慢性不況」と称されるほどの長期不況が支配
 し、大戦期の花形産業であった鉱山、造船、商事がいずれも停
 滞して、一部の大企業は破綻し、重化学工業も欧米製品が再び
 流入して苦境に立たされることとなった。1920年代の「慢
 性不況」は、大戦景気と戦争直後のバブル経済的なブームのあ
 とにきた反動によるものと把握できる。 ──ウィキペディア
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 1925年に農商務省が商工省と農林省に分割されると、岸は
商工省に配属されたのです。1936年10月に満州国・国務院
実業部総務司長に就任し、満州に渡っています。
 1937年7月に産業部次長、1939年3月に総務庁次長と
岸は順調に出世しています。満州では「産業開発5ヶ年計画」が
既に作られていましたが、それを大蔵省出身で、当時国務院総務
長官を歴任し、経済財政政策を統轄した星野直樹と一緒に計画に
手を入れ、実施して成功させているのです。これが「戦時総力戦
経済体制」の原型になるのです。
 このとき満州を仕切っていたのは関東軍司令部です。岸は満州
に赴任するや、関東軍司令部に顔を出し、時の参謀長の板垣征四
郎中将に、満州国の経済、産業のことはわれわれ官僚にまかせて
欲しいと申し入れているのです。
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 私は別に日本の役所を食いつめてきたわけではないのです。私
 が見るに、関東軍が満州国の治安を維持するのに重大な責務が
 あることは分かる。しかし経済、産業の問題はわれわれ役人が
 分担してやるべきだと思うから、軍人はそういうことに携わら
 ないでもらいたい。それゆえ少なくとも経済、産業のことは私
 に任せてもらいたいのだ。         ──岩見隆夫著
       『昭和の革命家/岸信介』/人物文庫・学陽書房
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 着任の挨拶としては、凄い発言です。当時泣く子も黙るといわ
れ、満州国の実権を握っていた満州国のボスの板垣にこれだけの
ことをいえたところに岸の凄さがあったのです。しかし、岸は関
東軍との関係は飲み会などを通じて良好に保ち、すべてを相談し
ながらやったので、何のトラブルも起こさなかったのです。当時
岸は満州の経済と産業を握っていた鮎川義介や松岡洋右を通じて
潤沢な軍資金を得ていたからできたことなのです。
 こういう付き合いを通じて、岸は、当時憲兵隊司令官の東條英
機をはじめ、日産コンツェルンの総帥の鮎川義介、椎名悦三郎、
大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に
跨る広範な人脈を築き上げるのです。そして、満州国の5人の大
物「弐キ参スケ」の一人に数えられるようになります。
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 ◎ 弐キ ・・・ 東條英機、星野直樹
 ◎参スケ ・・・ 鮎川義介、岸信介、松岡洋右(ようスケ)
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 かし、岸が満州にいたのは、たったの3年だったのです。帰国
後、岸は、1941年に東条内閣の商工次官、商工省が軍需省に
再編されると、国務大臣・軍需次官(軍需大臣は東條英機兼務)
のポストに就いたのです。
 このように岸はまさに戦時日本の寵児であったのです。そんな
岸を米国が戦争犯罪人リストに入れないはずがないのです。実際
に岸は、1945年9月15日、連合国軍に連行されたのです。
しかし、不思議なことに、1948年12月23日、A級戦犯の
うち東條英機元首相以下、7人が処刑されたにもかかわらず、翌
24日に岸は不起訴で釈放されているのです。
 なぜ岸信介は起訴されなかったのでしょうか。
 それはいまもって謎とされています。いくつかの説があります
が、岸がサイパン決戦をめぐって東條と激突し、辞任要求も突っ
ぱねたので、東條内閣は閣内不一致で総辞職に追い込まれたので
す。岸は、その後、郷里の山口県に帰ってからも、東條派の憲兵
に見張られながら、防長尊攘同志会という組織を作り、倒閣運動
を続けていたのです。米国はこのことを評価し、岸を不起訴にし
後に岸を戦後日本の復興に利用することを考えていたものと思わ
れます。米国は、岸信介の優秀さとその経験を高く評価していた
ことになります。       ──[新自由主義の正体/40]

≪画像および関連情報≫
 ●「岸信介と小沢一郎」/岩見隆夫著より
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  岸も、戦前、戦中、戦後にわたる言動を追ってみると、エピ
  キュリアン的な振る舞いといい、人を切り捨てるようなカミ
  ソリ発言といい、岸が心酔した幕末の志士、高杉晋作と二重
  写しになることがあった。岸は、維新回天の推進力になった
  長州で生まれ育ち、長州的バーバリズムを愛し、国家改造の
  野望を常に抱いて実践しようとした最後の長州政治家であっ
  た。岸よりも約半世紀(正確には46年)おくれて生まれて
  きた小沢(一郎)は、育った環境も時代も違うが、「明治維
  新への憧憬」という一点で岸と交わる。もし岸が存命なら、
  96歳を数えることになるが、「平成の妖怪」の気配もみせ
  てきた小沢と、そのグループの『日本改造計画』(小沢の著
  書名)に声援を送ったのではなかろうか。剛腕といえば、日
  米安保改定をあの怒涛のような反対の嵐のなかで手がけた岸
  は、評価はともあれ歴代首相のなかで剛腕のうちに入る。戦
  後の政治リーダーたちは、ほとんど調整型で占められている
  が、岸と小沢は例外的に信念型であり、最近の小沢のロから
  は、「百万人といえども我ゆかん」などと、古風なセリフま
  で洩れるのである。岸の再来のような印象もある小沢の変革
  運動が、長期的にみて日本の幸せにつながるかどうかは、な
  んともいいがたい。だが、明治維新が避けがたい開国への時
  代的要請を背景としていたように、平成のいまが「第二の開
  国」を強く求めていることは間違いない。
                ──岩見隆夫著の前掲書より
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岩見隆夫氏の本/「岸信介」.jpg
岩見隆夫氏の本/「岸信介」
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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