2014年07月03日

●「戦時改革プランの設計者は岸信介」(EJ第3825号)

 戦時総力戦経済体制の話を続けます。なお、歴史上の人物につ
いては敬称を省略させていただきます。
 1930年代後半の日本──1937年に中国との戦争が激化
し、その4年後の1941年に太平洋戦争が勃発します。こうい
う非常時の経済をどうするか──それは国家総動員をしてでも、
経済成長を促進する必要があったのです。
 その理論武装をしたのは、軍部と大量失業時代に入省した若き
革新官僚たちだったのです。彼らは軍部と一体になって、日本の
構造改革に取り組んだのです。これによって構築されたのが「戦
時総力戦経済体制」なのです。
 まず、必要なことは、当時強大な権限を有していた株主の力を
奪うことです。この目的のために、1943年10月に会社法が
改正され、「軍需会社法」が成立したのです。これによって、企
業経営における株主の影響力は消滅したといえます。
 株主配当は厳しく抑えられ、利潤の大半は再投資と経営者の報
酬、従業員の給与、それに生産性向上に対して与えられる褒賞に
分配されることになったからです。
 このシステムによって経営者と従業員の報酬が当然増えること
になりますが、国家非常時にあまり多額の報酬を受け取るのはま
ずいため、勤続年数に応じて報酬を受け取るシステムを導入した
のです。これが年功給の始まりです。その他、企業福祉制度とし
ての健康保険制度、労働者年金保険制度なども、すべてこの時期
にできているのです。
 そして、企業を管轄する官庁としての商工省は企画院と合併し
軍需省が誕生します。これによって、株の大半を政府が持つ国策
会社が1937年の27社から1941年には154社に増加す
ることになったのです。
 その結果、軍需産業が繁栄し、個人が消費する商品やサービス
は著しく減少します。そこでこの段階で貯蓄が奨励され、全国貯
蓄奨励運動が開始されたのです。このようにして消費が巧妙に抑
えられ、家計部門の富は企業部門へと移されていったのです。
 この1937年から1945年までの構造改革によってほとん
どの企業は、利益ではなく、成長を目指す半官の事業に変貌して
しまうことになります。
 政治家に対しても手を打つ必要があったのです。政治の面にお
いて軍部と官僚は、政治家が口出しをすることを排除するため、
1940年に政党を廃止し、ほとんどの政治家はひとつの政党に
統合されたのです。この政党が大政翼賛会です。
 大政翼賛会が政党であるかどうかは議論があるところですが、
第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」を閣議決定し、「国防
国家体制」樹立の方針を確立したのです。1940年7月26日
のことです。これによって全政党が解散し、同年10月12日に
大政翼賛会が結成されたのです。
 ところで、この経済システムの真の立案者は一体誰なのでしょ
うか。このシステムは驚くほど一貫しており、論理的に整合性が
あり、無駄が一切ないのです。しかも、信じられないほど短期間
で作り上げられているのです。どうして、そんなことができたの
でしょうか。
 それはこの改革プランが、既に満州において実験済みであった
からです。「満州」といっても、若い人はピンとこないでしょう
が、満州は現在の中国東北部のことであり、当時日本が統治して
いたのです。ここには、陸軍の主力と戦時中のエリート官僚の多
くが駐留していたのです。そのエリート官僚の代表的な一人が岸
信介なのです。現在の安倍首相の祖父にあたります。
 岸信介は、満州を支配していたエリートの一人であり、軍需省
のトップ官僚だったのです。戦時経済システムの重要な立案者の
一人であるとともに、戦後日本経済の立案者の中心的存在である
といえます。
 岸は戦争中商工大臣を務めましたが、戦後は首相になり、その
あとで、やはり首相になる弟の佐藤栄作とともに、1972年ま
であわせて10年間も首相の座を独占したのです。この岸/佐藤
によって日本政治の保守本流が築かれ、それが田中角栄に受け継
がれていくことになります。
 戦時経済体制の立案者のエリート官僚の中に、もう一人忘れて
はならない人物がいます。中曽根康弘元首相です。彼は内務省出
身の官僚であり、若くしてこのプロジェクトに参加しています。
岸にしても中曽根にしても、若い頃からその優秀性は音に聞こえ
ていたのです。
 さて、問題は戦後なのです。GHQは次の3つの大改革を掲げ
て日本に乗り込んできたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.財閥解体
           2.農地改革
           3.労働改革
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、戦時経済体制はほぼ完全に解体したように見え
たものです。しかし、1952年4月に米国による日本の占領が
終了したとき、当初占領軍に課せられていた目標とは正反対の体
制が日本に出来上がっていたのです。野口悠紀雄氏は、この戦前
との連続性について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際、政府機構における戦前との連続性は、驚くべきものであ
 る。消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、殆ど
 そのままの形で残った。大蔵省を始めとする経済官庁は、公務
 員制度改革によって部分的修正は受けたものの、ほぼ戦前と同
 様の組織を維持した。人事の年次序列においてでぇ、戦前から
 の完全な連続性が維持された。      ──野口悠紀雄著
 「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
―――――――――――――――――――――――――――――
               ──[新自由主義の正体/39]

≪画像および関連情報≫
 ●岸信介と安倍晋三はこれだけ違う/田中良紹氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「憲法改正」を堂々と議論することをせず、解釈改憲という
  「憲法の骨抜き」を画策する安倍総理に対し、安保条約の改
  訂で対米自立を追求した祖父の岸信介元総理との相似性を指
  摘する声が聞かれる。政治を右とか左とかで考える単純な人
  間にはそう見えるのかもしれないが、私には、「岸信介」と
  「安倍晋三」はまるで異なる次元の政治家に見える。と言う
  か、「岸信介」は政治家だが「安倍晋三」は政治家ごっこを
  しているだけに見える。「政治はアートである。サイエンス
  に非ず」と伊藤博文に手紙を書いたのは、海援隊で坂本龍馬
  の腹心を務め、明治政府では外務大臣となって「カミソリ」
  と綽名された陸奥宗光である。冷戦の時代が転換する激動の
  時期に日米の政治を比較して見てきた私にその言葉は絶妙の
  響きを持って聞こえる。政治には理屈では表現できない、手
  触りでしか分からない部分があり、単純思考で読み解くのは
  難しいのである。安倍総理から政治の「奥」を感ずることは
  全くないが、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸元総理には「奥」
  を感ずるところが多い。80年代に政治記者として二度ほど
  お目にかかったことがあるが、何とも言えない不思議な魅力
  を感じた。オーラル・ヒストリー『岸信介証言録』(毎日新
  聞社)を読むと、その不思議な魅力がどこから生まれたかが
  分かる。             http://bit.ly/1iRx5G7
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岸信介元首相.jpg
岸 信介元首相

posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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