人は思っています。新憲法が制定され、公職追放が行われ、財閥
解体、農地改革、労働立法などの戦後改革によって、日本は奇跡
の戦後復興を遂げたと多くの人が思っています。そのなかにはも
ちろん経済の改革も含まれています。
そういう意味で、日本人の多くは、「新生日本の誕生日は終戦
時であり、その親は戦後改革である」と考えていると思います。
しかし、それは違うようです。戦後改革に関しては戦時中の体制
の継続であると思われるからです。
これに関して『1940年体制』の著者の野口悠紀雄氏は、同
書で次のように書いています。
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しかし、もし、われわれの出生が別の時であり、われわれの親
が、別人であるとすればどうであろう?われわれは、「戦時期
は忌まわしい「暗い谷間の時代」であり、民族の記憶から一掃
すべきものである」と教えられてきた。満州事変の直前まで日
本は近代化への道を歩んできたが、それ以降の軍部ファシズム
の台頭によって、日本の歴史は正常なコースから逸脱したと。
しかし、もし、その時期が現在の日本にとって本質的意味があ
るものだとすれば、どうであろう?もし、戦時期の制度こそが
われわれの本当の親であるとすれば?
──野口悠紀雄著/東洋経済新報社
「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」
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それは、戦時経済体制と戦後に占領軍主導でとられた体制を調
べてみるとわかるのです。そこには、ある意図によって、戦後体
制を1920年代のような自由市場資本主義にはあえて戻さず、
むしろ戦時中にとられていた体制を民主主義の旗の下に、巧妙に
維持する政策がとられていたといえるからです。
どうしてそんなことができたかというと、戦時経済体制を作り
上げたエリート官僚たちが、戦後も引き続き指導的な地位に留ま
り、後には首相にまで就任するなど日本をコントロールしたから
です。日銀もその中で重要な役割を果たしているのです。このこ
とは後で詳しく説明します。
1938年4月、国家総動員法案が議会に提出され、多くの反
対を押し切って成立します。この法律は国中のあらゆる物資の動
員を許すというものであり、具体的な内容は政令で定めるという
事実上白紙委任状に等しいものだったのです。
この時期国を動かしていたのは軍部ですが、軍人は経済に疎い
ので、経済・財政新体制の運営はエリート官僚たちの手に委ねら
れたのです。国家総動員法によって彼らは、何でもできる権限を
手に入れたことになります。
1940年にこれら日本の官僚は、次の3つの柱から成る新経
済体制を宣言したのです。
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1.新金融体制
2.新財政政策
3.新労働体制
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これら3つ全体の調整機能は、1937年に設立された企画院
が握ることになったのですが、この企画院はいわば軍事経済の参
謀本部の役割を果たしたのです。
この新経済体制の狙いは、簡単にいうと、個人が貯蓄し、企業
は利益を再投資する経済機構を作ることにあったのです。そして
そのためのインセンティブを与えることもその狙いなのです。
株主の目標は利潤を多く得ることです。株主が一番関心を持つ
のが高い配当であるとすると、企業が再投資する資金はなくなり
経済成長は遅れることになります。この論理から、株主は成長に
とっていちばん邪魔な存在であるということになります。
一方、経営者は企業内部で出世すると威信が高まり、企業の資
源に対して大きな権限をふるうことができます。株主と労働者の
目的は経済成長には結びつかないものの、経営者の目標は経済成
長を促進する国家の目的と一致するのです。
要するに、株主と労働者の力を奪い、経営者の力を強めてやれ
ば経済成長を促進できる――1930年代の為政者はそのように
考えたわけです。しかし、労働者の力を収奪しすぎると、その不
満が共産主義に結びつく恐れがあり、むしろ労働者に企業内部の
事柄に対する発言力を強めるようにし、会社家族主義のイデオロ
ギーを植え付けるべきであるというように考えたのです。
結局、成長に一番の障害になるのは株主ということになり、大
企業が優勢に立つ経済では、資本家なしの資本主義が一番ベスト
であるという結論に達したのです。
戦前の為政者たちは、これをひとつずつ実行に移します。経営
者の地位は引き上げられ、株主の権限は縮小されます。企業は株
主の所有物ではなく、そこで働く者の共同体であるということに
なり、配当の伸びに制約が加えられるようになったのです。
このようにして、1920年代の経済体制から、現在の日本に
近い体制──「日本型経済システム」が作り上げられていったの
です。問題はそれが終戦後も変更されることなく継続され、日本
の戦後復興に貢献したことです。これらの諸改革について、野口
悠紀雄氏は次のように述べています。
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戦時経済体制については1940年前後に集中してなされた。
この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦を
戦うためにさまざまな準備が必要だったのである。そこで、こ
の時期に形成された経済体制を「1940年体制」と呼ぶこと
が出来よう。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕
組みを形成している。 ──野口悠紀雄著の前掲書より
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──[新自由主義の正体/38]
≪画像および関連情報≫
●野口悠紀雄著『1940年体制』の書評/その2
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『これは歴史認識を持つために重要な書物であり、読まねば
ならぬ』とずっと思っていたが、やっと時間を作って熟読し
た。内容は重いが、歴史の面白さをこれほど強く感じたこと
はない。今の日本を作ったのは、戦中に総力戦遂行のために
強権発動で整備されたシステムであり、その意味で日本は戦
時体制が終わっていない、というのが本書の主張であり、非
常に説得力があり同感できるものだった。一般的に、終戦に
よって大きな断絶があり、占領軍による戦後改革こそが今日
の日本を形作る原型となった、との考えが一般的だが、本質
的な断絶は、戦前と戦中の間にあったというのだ。なかでも
重要なのは1940年の税制改正で、戦費調達のために導入
された給与所得の源泉徴収制度、そして地方への補助金・交
付税による支配体制だった。GHQは金融改革、官僚改革を
やらなかったのである。有権者意識を奪う巧妙な手段として
普段なにげなく徴集方法に不満を持っていた源泉徴集制度の
起源が戦中にあったとは全く知らなかった。戦争に勝つため
のシステムは、経済に勝つためのシステムにもなり得た。こ
の歴史の皮肉が何とも興味深い。また、経済成長を終えた今
の日本が抱えている様々な弊害も、この勝つためのシステム
(=供給者優位のシステム)に根を持ったものであり、それ
が受益者にとって様々な不都合を生んでいるのだということ
を、どれだけの人が認識しているだろうか。
http://bit.ly/1x82wDP
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野口 悠紀雄氏