2014年06月30日

●「戦時総力戦経済体制とは一体何か」(EJ第3822号)

 日本の新自由主義化は、欧米とは約10年遅れてはじまってい
ます。英国のサッチャー改革やレーガン改革の時期の日本の政権
は、1982年誕生の中曽根政権です。
 中曽根政権は「戦後政治の総決算」を唱え、行政改革を強く推
進した内閣として知られています。そのため、日本の新自由主義
化のはじまりは、中曽根行革からであるという学者がいますが、
そうではないのです。というのは、当時の日本は、どうしても構
造改革をやらざるを得ないような状況に陥っていなかったからで
す。そのため、中曽根行革は、「新自由主義の早熟な先取り的試
み」として位置づけられるのです。
 レーガン政権発足の時点で経済が突出して好調であった先進国
は、日本と西ドイツであったのです。とくに日本は、1970年
のニクソン・ショックによる円高でも輸出は好調で、その後のオ
イルショックも乗り越え、経済は絶好調であったのです。
 レーガン大統領は、日米の経済協議を踏み込んで議論したいと
「日米構造協議」の開催を提案してきたのです。中曽根首相はこ
れを受け入れ、日米両国に「日米円ドル委員会」が設置されたの
です。米国の狙いは、日本の金融資本市場の開放と自由化によっ
て、経済・金融面で日本をコントロールすることです。1983
年のことです。
 また、レーガン政権は、日本と西ドイツに、金融緩和と内需拡
大を迫ったのです。このとき、西ドイツはインフレを懸念し実施
を渋ったのですが、中曽根首相はそれを前向きに受け止め、日本
の内需拡大の政策に関する報告書を米国に提出したのです。これ
が世にいう「前川レポート」です。
 当時の自民党は田中派に牛耳られており、田中曽根首相ともい
われていたのです。そういう意味で、中曽根首相はいわゆる政権
基盤が強くなかったのです。こういうとき戦後日本の首相が必ず
やることは、米国との関係を良くすることです。中曽根首相とし
ては、レーガン大統領と親密になることが、長期政権の道を拓く
と真剣に考えたのです。
 そこで、中曽根首相は、元日銀総裁の前川春雄氏を座長とする
諮問会議をつくり、米国の意向を組んだ次の報告書を作成させた
のです。このとき、日銀副総裁だった三重野康氏と営業局長だっ
た福井俊彦氏も執筆に参加しています。彼らはいずれも後に日銀
総裁になっています。
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  「国際協調のための経済調整研究会報告書」
  ≪報告書の骨子≫
   1.市場原理主義をベースとして内需拡大策をとる
   2.金融・資本市場を自由化し、円の国際化を進展
―――――――――――――――――――――――――――――
 1986年、中曽根首相は訪米し、レーガン大統領に会ってい
ます。「前川レポート」の趣旨を説明し、米国の意向に従うこと
を約束するためです。土産を持って参勤交代的に訪米し、恭順の
意を示したのです。そのおかげもあってか、レーガン大統領と中
曽根首相の仲は「ロン・ヤス関係」と呼ばれ、その良好さは評判
になったものです。
 前川レポートは、日本の経済構造の改革を訴えているのです。
製造業からサービス業へ、輸出主導型から内需主導型に、大幅な
規制緩和と自由化へと構造を変えるべきであると訴えています。
要するに、戦時経済システムを構造改革して、米国流の自由市場
経済にするべきであると主張しているのです。これは、後の小泉
改革と酷似しています。つまり、本当の意味の日本の新自由主義
化は小泉内閣のときからはじまっているのです。
 さて、ここで日本人は考えるべきことがあります。多くの日本
人は、戦後の日本の急速な復興は、米国のもたらした民主主義に
よるものと考えていると思います。しかし、それは違うのです。
それは、次の名称で呼ばれています。
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          戦時総力戦経済体制
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 この「戦時総力戦経済体制」は、対外的には「日本型経済シス
テム」と呼ばれる日本独特のシステムです。このシステムが戦後
の日本を急速に経済回復させ、日本を世界第2位の経済大国(当
時)に押し上げたのです。
 それでは、「戦時総力戦経済体制」とは何でしようか。
 これには少し説明が必要です。それに当時の大蔵省と日銀の暗
闘もこれに複雑に絡んできます。しかし、それを知ると、日本が
なぜ「失われた20年」ともいわれるデフレ不況に陥ったのかと
いう真相が見えてきます。実はEJでは、17回にわたって、こ
のテーマを一度取り上げているのですが、これはブログに掲載し
ていないので、新しい観点からリライトするつもりです。
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 2001年7月 4日付/EJ第651号〜
        2001年7月27日付/EJ第667号
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 今になって考えると、「前川レポート」は「戦時総力戦経済体
制」を変える提言であったと考えられるのです。しかし、それを
実施することは、日銀がその体制の最大の既得権益機関のひとつ
である大蔵省に勝利することを意味していたのです。この問題に
は、日銀と大蔵省の暗闘がからんでいると述べたのは、そういう
理由によるのです。
 この「戦時総力戦経済体制」という言葉は、表立って使われる
ことはなかったのですが、奇しくも2人の大蔵官僚によって、明
らかにされたのです。2人の大蔵官僚とは、野口悠紀雄氏と榊原
英資氏のことですが、これについては、明日のEJで述べること
にします。なお、野口悠紀雄氏は1964年に大蔵省に入庁して
おり、大蔵官僚出身の学者なのです。榊原英資氏は大蔵省で財務
官まで出世しています。    ──[新自由主義の正体/36]

≪画像および関連情報≫
 ●「前川リポート」について/小宮隆太郎氏
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  東大医学部教授だった沖中重雄氏は1963年の最終講義で
  自分の「誤診率」は14.3 %だったと率直に語った。私自
  身の誤診率はどれほどだろうか。経済問題に関する発言での
  成績で言えば「クンロク大関」より少しましな九勝三敗三分
  けぐらいか。「引き分け」は、私も相手も「自分が勝った」
  と考えているケースである。86年の「国際協調のための経
  済構造調整研究会報告書」(前川リポート)は私の批判の相
  手方がまだ自分たちは正しかったと思っているので「引き分
  け」に入る。例えば加藤寛氏は「私の履歴書」で前川リポー
  トを「空想画」と批判した私に対して「批判者のように経済
  学の世界に閉じこもって、どうして政策論がでてくるのかが
  分からない」と反論している。金森久雄氏も同欄で「これが
  その後のバブル経済のもとになったという批判もある。恐ら
  くそれは正しくない」と書いた。私は日本の黒字を減らすた
  めの放漫な金融政策や、日米構造協議で政府が対外公約した
  「公共投資430兆円」がバブル経済の背景になっていると
  思う。私に言わせれば「前川リポート」は中曽根康弘首相が
  訪米してレーガン大統領に会うときに、「恭順の意」を表す
  ためにアメリカ側が気に入るようなことを書いて持っていっ
  たという感じである。同リポートに対して、C・ヤイター米
  通商代表は「首相が訪問国の喜びそうな報告を発表するのは
  日本のいつものやり方だが、危険なゲームだ」と批判した。
  書いてある中身も経済学的な批判に堪えない間違ったことば
  かりだ。             http://bit.ly/1qkzSPp
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前川春雄元日銀総裁.jpg
前川 春雄元日銀総裁
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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