になっていたのです。そこで時の中曽根首相は、竹下登蔵相に対
し、日米貿易摩擦問題を解決するために円・ドル調整を含めた総
合対策を検討するよう指示したのです。
この中曽根内閣は、田中角栄元首相率いる田中派が協力してで
きた内閣で、「田中曽根内閣」と揶揄されており、次期首相は竹
下蔵相とほとんど決まっていたのです。そこで竹下蔵相は、この
仕事を自分の名前を上げる絶好の機会ととらえたのです。
レーガン政権第1期目の財務長官はドナルド・リーガン、大統
領ロナルド・レーガンとそっくりなので、ややこしいのですが、
名前だけでなく性格も考え方もよく似ていたのです。したがって
この2人に米国をまかせておくと、イケイケ・ドンドンになって
しまうので、レーガン政権第2期の財務長官には弁護士出身で実
務家のジェームス・ベーカーが選ばれたのです。
ベーカー財務長官は、議会で燃え上がる保護主義の火を消す狙
いで、1985年2月から3月にかけて、ドル高・欧州通貨安を
是正するため、主として西ドイツと協調して、総額100億ドル
の協調介入を行ったのです。その結果、当時「1ドル=3.4 マ
ルク」(対円1ドル=260円)という高値をつけていたドルは
3月以降、ゆるやかに下降をはじめたのです。ベーカー長官とし
ては、ドル高を是正せずにこのまま推移すると、対外債務が累積
して、ドルが暴落する恐れがあると感じていたのです。
このことを竹下蔵相はよく見ていたのです。1985年6月に
東京で開催されたG10──主要10ヶ国蔵相・中央銀行総裁会
議の機会を利用して、竹下蔵相はベーカー長官と会談を行ってい
ます。その席で竹下蔵相は自分の方から、日米の協調介入による
ドル高是正を打診したのです。いわばこれは、米国に対して助け
舟を出したかたちになります。
そのとき、ベーカー長官は、単に日本に積極的な内需拡大を求
めると述べるにとどめましたが、この会談を契機としてベーカー
・竹下チャネルによる日米間の政策協調に関する交渉が水面下で
急速に具体化していったのです。
このドル高是正のための政策パッケージ──為替市場介入、財
政政策、金融政策などの総合対策づくりには、西ドイツ、イギリ
ス、フランスの蔵相を巻き込んだ主要5力国(G5)の蔵相ベー
スの国際的政策協調へと拡大していったのです。
実は、この協議は、ベーカー財務長官を中心に日本、西ドイツ
イギリス、フランスの蔵相たちとの間でひそかに話が進められ、
中央銀行総裁ですら協議から外されていたのです。おそらくそれ
はベーカー長官の方針であったと思われます。そして、9月中旬
に米国で開くG5で最終決定することにまとまったのです。
ベーカー長官はこの件をボルカーFRB議長には一切相談して
いないし、イギリス、フランスも中央銀行総裁に情報を伝えてい
ないのです。日本もこの方針にしたがっています。これはきわめ
て異例のことです。
当時ボルカー議長は、レーガン政権下のホワイトハウスから煙
たがられており、政権の政策とFRBのそれは必ずしも整合性が
とれていたとはいえないのです。レーガンは事実上金融政策のこ
とはボルカー議長に丸投げしていたのです。
日本銀行の澄田総裁が、大蔵省の大場智満財務官から、プラザ
ホテルで開催予定のG5会議において、各国が為替市場での協調
介入実施を決定する方針であるとの説明を受けたのは、会議4日
前のことであったといわれます。
1985年9月22日(日曜日)、ニューヨークのプラザホテ
ルの「ホワイト&ゴールドの間」において、G5の蔵相・中央銀
行総裁会議が開催されたのです。日本からは、竹下蔵相、大場財
務官、そして澄田総裁が出席しています。
この会議の模様について、日本銀行エコノミストの黒田晃生氏
が、ウェブサイト上の論文で、次のように書いています。
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午前11時半から約5時間に亘って開催された会議では、蔵相
代理レベルで予め準備された共同声明文についての最終的な詰
めが行われ、保護主義に抵抗するためには「ファンダメンタル
ズの現状および今後の変化を照らして、主要非ドル通貨の対ド
ルでのある程度の一層の秩序ある上昇が望ましい」こと、そし
て、「G5各国は、これを促進するよう密接に協調する用意が
ある」ことを共同声明として発表することで合意した。また、
ドル高を是正するための為替市場介入戦略についての討議が行
われ、ドルを近い将来において10〜12%下方調整すべく各
国が協調介入を実施すること。介入期間・規模は6週間程度の
電撃作戦で180億ドルを目途とすること、介入資金の分担を
アメリカ・日本各30%、西ドイツ25%、フランス10%、
イギリス5%とすることなどで合意した。会議の席上、竹下大
蔵大臣は、ドル高是正のための協調介入に一貫して積極的な姿
勢を示し、「1ドル=200円の円高をも容認する」と自発的
に発言して、会議での合意形成に貢献した。 ──黒田晃生著
「日本銀行の金融政策(1984年〜1989年)/プラザ合
意と『バブル』の生成」 http://bit.ly/UGRaJF
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この通貨調整会議のことを「プラザ合意」と呼んでいるのです
が、この会議の主導権を取ったのは竹下登蔵相(当時)であり、
当時円/ドル相場は「1ドル=260円」であったのですが、こ
こから急速なドル安/円高がはじまったのです。
しかし、これほどまでに日本が米国に協力しているのに、プラ
ザ合意の翌日にレーガン大統領は、後に悪名が高くなる「通商法
301条」という国内法を振りかざし、一方的に不公平取引国を
特定し、それに制裁を科す方針を打ち出したのです。米国の貿易
赤字の3分まの1は日本であったので、そのターゲットは間違い
なく日本を狙い撃ちにした政策だったといえます。レーガンは自
由主義者だったのに、です。 ──[新自由主義の正体/29]
≪画像および関連情報≫
●1985年/プラザ合意/法学館憲法研究所
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20世紀末の日本経済は80年代後半のバブル経済と、90
年代のその崩壊による「失われた10年」で彩られます。そ
の端緒となったのが85年の「プラザ合意」だと言われてい
ます。「プラザ合意」は、85年9月、ニューヨークのプラ
ザホテルで開かれたG5でなされました。為替市場は、アメ
リカ経済の相対的な弱化を受けて73年から変動相場制に移
行しましたが、80年代のドル高は、アメリカにとっては好
ましくないものでした。78年には1ドル176円も記録し
ましたが、85年には263円にまで上っています。そこで
同年、レーガン政権の強力な要望により、ドル安=円高・マ
ルク高の方向に各国政府が協調介入する旨を取り決めたこの
合意がなされました。その背景を見ます。73年と78年の
2度に渡るオイルショックは、エネルギー資源のほとんどを
海外に依存する日本経済にとっては、とりわけ大きな打撃要
因となりました。しかし、日本は、リストラクチャリングと
呼ばれる企業の再構築を実行し、省エネ努力、半導体などの
技術開発で乗り切りました。しかし、そのために国家財政の
赤字を拡大し、以後の日本は財政再建に乗り出さざるを得な
くなっていました(第二臨調の設置)。一方アメリカも、財
政赤字を拡大させていました。軍産複合体となっていたアメ
リカは、ソ連等に対抗するための軍事支出を増大します。そ
のうえ、所得税の大減税と投資減税で税収減となりました。
http://bit.ly/1jvNQGp
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ニューヨーク・プラザホテル