策は、必ずしも成功しているとは思えないのに、「レーガノミッ
クス」として現代でも取り上げられるのはなぜでしょうか。
まず、レーガンが登場する前の70年代の米国の経済状況につ
いて知る必要があります。70年代というと、ニクソン、フォー
ド、カーター大統領の時代です。
当時の米国は、物価の上昇と経済の低成長が同時に発生するス
タグフレーションに苦しめられていたのです。そのスタグフレー
ションの原因のひとつにベトナム戦争のドロ沼化があります。
この戦争は、1960年12月からはじまっているのですが、
もともとは南北ベトナムの統一戦争であったものが、資本主義国
家の代表である米国と共産主義国家の代表のソ連との代理戦争の
様相を呈して長期化したのです。この戦争でソ連は表面に出てく
ることはなかったものの、軍事物資の支援や軍事顧問団の派遣を
行ったのに対し、米国はケネディ政権とジョンソン政権で大規模
な米軍を派遣し、それに加えて、東南アジア条約機構の主要構成
国も派兵し、本格的な戦争になったのです。しかし、戦況は一向
に改善せず、ドロ沼にはまってしまったのです。
70年代に入ってニクソン大統領は、1973年のパリ協定に
基づいて米軍を撤退させ、1975年4月のサイゴン陥落によっ
てベトナム戦争は終結したのです。事実上の米国の敗北です。こ
の戦争の後遺症で米国経済は落ち込み、その後、フォード政権、
カーター政権でも経済は低調のままであったのです。
添付ファイルを見てください。このグラフは、1970年代か
ら1980年代の米国の株価と消費者物価指数、長期金利の推移
をあらわしています。なお、株価と消費者物価指数は1970年
1月を100としたグラフになっています。
これを見ると、レーガンが登場するまで株価は10年以上にわ
たって低迷し、消費者物価指数は2倍に跳ね上がっています。ス
タグフレーションは明白であり、インフレ率も上昇していたので
す。それにインフレ率が上がれば下がるはずの失業率も高止まり
していたのです。しかし、グラフに注目すると、レーガン政権の
後半から株価は急上昇しています。大統領就任時の約3倍にまで
跳ね上がっています。
日本の安倍政権の場合もそうですが、株価が上がると、経済が
良くなってくると実感するものです。米国民もレーガンの経済政
策が功を奏しつつあるなと感じたと思います。
しかし、レーガン政権が安倍政権と違うのは、デフレではなく
インフレを克服することです。そのためには金利を上げる必要が
あります。そうすれば、景気に水を差し、株価が下落する恐れも
十分あったのです。これが当時のFRB議長のポール・ボルカー
氏の任務だったのです。レーガンはボルカー議長を信頼し、金融
政策については一切口を出さなかったからです。
しかし、相当思い切ったことをやらないと、インフレ率を下げ
るのは困難だったのです。内橋克人氏は、ボルカー議長について
次のように述べています。
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1979年10月にアメリカの中央銀行FRB議長ポール・ボ
ルカーは、ケインジアン的アプローチからマネタリスト的なア
ローチに政策を大転換します。貨幣供給量を減らし、利子率の
急上昇を許し、失業率を高めてでもインフレをおさえこもうと
しました。このマネタリスト的な実験は劇的な効果を発揮した
ようにみえました。インフレ率は、1980年末の22パーセ
ントから1984年の4パーセントまで劇的に下がります。
──内橋克人著
『新版/悪魔のサイクル/ネオリベラリズム循環』/文春文庫
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インフレを抑制するには、金利を上げればよいのです。しかし
利上げを行えば、議会から激しい突き上げがくることはわかって
いたのです。それに失業率も上がります。しかし、やらなければ
ならない。ボルカー議長は一計を案じたのです。
当時の米国の経済界では、ミルトン・フリードマンの学説が話
題になっていたので、ボルカーは、政策金利の利上げを前面に出
さないで、次のように宣言したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
政策金利のコントロールではなく、マネーサプライのコント
ロールを政策目標とする。 ──ホール・ボルカー
―――――――――――――――――――――――――――――
ちょっと考えると、ボルカー議長がフリードマンの政策を採用
したようにみえますが、実はそうではなく、レトリックとして使
っただけなのです。その証拠に実際には矢継ぎ早に利上げを強行
して、猛烈な金融引き締め政策を断行したのです。何しろ10%
程度であった政策金利を一挙に20%まで引き上げたのですから
金融市場は大混乱に陥ったのです。信用収縮が起き、実質GDP
はマイナスとなり、長期金利は一時16%近くまで上昇したので
す。(添付ファイル参照)失業率も10%を超え、レーガン大統
領の支持率は次のように急降下したのです。
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≪レーガン大統領の支持率≫
1981年5月 ・・・・・ 65%
1983年1月 ・・・・・ 35%
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もちろん株価も下がったものの、1982年になると、インフ
レは徐々に収まってきて、株価も上昇を始めたのです。この19
79年のボルカー議長のインフレ退治と、現在の日本の黒田日銀
総裁の異次元緩和はよく比較されるのですが、それは本質的に異
なるものです。ボルカー議長は「目先の景気後退には目を瞑って
通貨の価値を守り抜いた」のに対し、黒田総裁は「目先の景気の
ために、日銀自ら通貨の価値を下げた」からです。大きな違いで
あると思います。 ──[新自由主義の正体/26]
≪画像および関連情報≫
●ボルカー議長によるインフレ退治/バーナンキ氏
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ポール・ボルカー氏は(1979年8月に)米連邦準備理事
会(FRB)の議長に就任してから数ヶ月で、インフレ問題
に対処するには強硬な政策が必要だとの判断に至りました。
そして同年10月、ボルカー氏と米連邦公開市場委員会(F
OMC)は、金融政策の運営方法を従来から一変させたので
す。ここでどんな手法が用いられ、どう機能したか詳細に説
明する必要はありません。基本的に、これによりFRBが金
利を大幅に引き下げることが可能になったということを理解
しておけば十分です。周知のように、金利を引き上げれば経
済は減速し、インフレ圧力は弱まります。ボルカー議長が言
ったように「インフレ・サイクルを断ち切るには、信頼する
に足る断固たる金融政策を取らねばなりません」(スライド
の写真下のカコミ)。ボルカー議長が政策を発動してから数
年でインフレ率は急落しました。1980〜83年の間にイ
ンフレ率は約12〜13%から3%程度にまで低下したので
す。インフレ率がかなり急速に下がり、70年末の問題を解
消したという点では、つまり「インフレ封じ込め」という目
的からすると、80年代の政策は大成功でした。しかし、何
事も“タダ”というわけにはいきません。ボルカー氏の政策
の1つは、金利を急速に引き上げることでした。81〜82
年当時、私は大学院を出たばかりで家を買うことを検討して
いました。はっきり覚えていませんが、30年物住宅ローン
の金利が18.5 %だと言われたのです。
http://nkbp.jp/1jP6N5V
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70〜80年代におけるインフレ状況