2014年06月10日

●「レーガン元大統領の政治キャリア」(EJ第3808号)

 6回にわたって、マーガレット・サッチャー元英国首相の英国
改革について述べてきましたが、そのサッチャーよりも1年遅れ
て米国大統領に就任したのが、ロナルド・レーガンです。
 ロナルド・レーガンというと、米国の高名な映画俳優としての
イメージが強く、政治や経済のことがどれほどわかる人物なのか
について疑問を持つ人も多いと思います。しかし、彼の米国の改
革は「レーガノミックス」の名前とともに残っており、経済改革
の代名詞になっているのです。「アベノミクス」もこれから採ら
れています。
 レーガンは徹底的な反共主義者です。当初レーガンはフランク
リン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持し、リベラ
ル派としてキャリアをはじめたのですが、後に保守主義者に転向
しています。
 レーガンは映画俳優組合委員長(SAG)を務めたことがあり
ますが、そのとき、上院議員のジョセフ・マッカーシーやリチャ
ード・ニクソンらのいわゆる「ハリウッドの赤狩り」にも協力し
ています。これほどまでに彼は徹底的な反共主義者なのです。
 この反共主義の姿勢が買われたのか、レーガンは政府と取引が
多いGEの「ゼネラル・エレクトニック・シアター」の司会を任
されるようになるのです。約8年間にわたって、レーガンはこの
仕事を続けますが、それによってレーガンの顔や名前はもちろん
のこと、その思想や考え方などを全米中に知らしめるのに大いに
役立ったのです。
 1964年の大統領選挙では、レーガンは「小さな政府」を唱
えるバリー・ゴールドウォーター上院議員を熱烈に支持し、その
後、その立場からテネシー川流域開発公社に反対したのです。し
かし、それが原因でレーガンは「ゼネラル・エレクトニック・シ
アター」の司会を外されてしまうのです。なぜなら、GEは、テ
ネシー川流域開発公社にタービンを納めていたからです。
 このことがきっかけになってレーガンは、政治家の道を目指す
ことを決意し、カルフォルニア州知事選に出馬し、1967年1
月にカルフォルニア州知事に就任します。このカルフォルニア州
知事時代の政策にレーガンの自由主義者としての特色がよくあら
われているのです。例えば、次のような逸話があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」
 という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り
 消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという
 行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘ
 ルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、
 それに州政府が関与する必要はない」というものだった。ちな
 みに、カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義
 務化されている。また、当時激戦を極めていたベトナム戦争に
 関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言し
 て批判を浴びたこともある。      ──ウィキペディア
                   http://bit.ly/1tVa4X3
―――――――――――――――――――――――――――――
 この逸話を知ると、レーガンが大統領として新自由主義的政策
を採用した理由がよくわかると思います。FRB議長や経済顧問
などの専門家の進言でそういう政策を採用したのではなく、自分
の意思でそれを実施しているのです。
 それにレーガンは、カルフォルニア州知事に就任したときから
大統領を狙っていたと思われます。その証拠にレーガンは、3回
大統領選に挑戦しているのです。一度の挑戦で大統領選に勝利し
たのではないのです。しかし、このことを知っている人は案外少
ないのではないでしょうか。レーガンほどの知名度がある人気俳
優であり、人気知事であれば何回も挑戦しているとは考えにくい
からです。
 最初の挑戦は1968年です。共和党の指名を受けるべく出馬
したのですが、同じカルフォルニア州を地元とするニクソン副大
統領に予備選の段階で敗れたのです。
 2回目の挑戦は1976年です。このときは現職のフォード大
統領と接戦を演じたのですが、夏の全国共和党大会の代議員選挙
で、次の結果で惜敗しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    フォード/1187票 レーガン/1070票
―――――――――――――――――――――――――――――
 3回目の挑戦は1980年です。相手は民主党の現職大統領の
ジミー・カーターです。レーガンはこの3度目の挑戦でカーター
大統領を破り、第40代大統領に就任したのです。多くのマスコ
ミは、このレーガンの勝利を、カーター政権下で起きたイランア
メリカ大使館人質事件へのカーター大統領の優柔不断さを批判す
るものであると報道しています。確かにこのとき、民主党員まで
もが現職のカーター大統領を見限って大勢の人がレーガンに投票
し、圧勝したのです。ちなみにレーガンの運の強さは、イランの
アメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員らが、444日
間ぶりに解放されたのがレーガンが大統領に就任したその日だっ
たことでも示されています。
 しかし、レーガンは、大統領に就任した同じ年の3月30日に
ジョン・ヒンクリーなる人物にピストルで暗殺されそうになった
のです。レーガンは左胸部に被弾したのですが、ジョージ・ワシ
ントン大学病院で緊急手術を受け、一命を取り止めています。重
傷を負っていたにもかかわらず、レーガンの意識ははっきりして
おり、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対
し、「あなた方がみな共和党だといいんだがね」とジョークを飛
ばす余裕さえ見せたといいます。このときの様子は事件後公表さ
れ、「危機の際にもユーモアを忘れない」という、指導者のある
べき姿を体現したものとして称賛の対象になったのです。なお、
暗殺は政治的なものではなく、犯人はカーターのときから大統領
暗殺を計画していたのです。  ──[新自由主義の正体/22]

≪画像および関連情報≫
 ●レーガン大統領と日本の修身/小池松次氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  レーガン大統領は就任すると直ちに道徳教育の復興に乗り出
  しました。当時のアメリカの青・少年の風紀は最悪で、暴力
  や麻薬の蔓延で荒廃の極に達していました。その原因は皮肉
  なことに、最高裁判所が「生徒規則や学校規則で生徒の自由
  を束縛してはならない」と決めたことでした。自由奔放で、
  やりたい放題で、規律や道徳教育不在では、まともな人物は
  育ちません。学校教育は成り立ちません。「アメリカは滅ぼ
  される」とレーガン政権は真剣に対策を検討しました。では
  一体、誰がアメリカを滅ぼすのでしょうか。敵軍ではありま
  せん。それは不良集団と化したアメリカの青少年達でした。
  その道徳教育改革のメンバーの一人が文部長官(日本の文部
  大臣に該当)を務めたW・ベネット氏です。彼は退任直後、
  レーガン政権の道徳教育の担当者としての知識を「The Book
   of Virtues」 (道徳読本)という名の本にして出版しまし
  た。1993年(平成5年)のことです。この830頁もあ
  る大著が「第二の聖書」と言われるほど毎年ベストセラーに
  なったそうです。「そうです」とは当時筆者は「道徳読本」
  の存在を全く知らなかったからです。一方、日本では、昭和
  45年5月(1970年)に筆者が「これが修身だ」という
  本を出版しました。内容は明治37年から昭和20年(19
  04〜1945年)までの修身と国語の国定教科書の中から
  現代でも立派に通用する話を92篇選び出し、それを22の
  徳目に配分したものです。     http://bit.ly/1tVnDWt
  ―――――――――――――――――――――――――――

ロナルド・レーガン元米国大統領.jpg
ロナルド・レーガン元米国大統領
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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