2007年04月24日

日本初のホームページが誕生した日(EJ第2067号)

 WWWが完全なかたちではないものの、ほぼ出来上ってきつつ
あった1992年9月30日にCERNを訪れ、ティムと会った
日本人がいます。
 森田洋平氏と渡瀬芳行氏の2人です。森田洋平氏は日本のCE
RNといわれるKEK(文部省高エネルギー加速器研究機構/当
時)の計算科学センターに勤務する研究者であり、渡瀬芳行氏は
その計算科学センター長だったのです。
 2人はフランスで開催されたコンピュータとネットワークに関
する国際会議に出席した帰りにCERNを訪問したのです。2人
はCERNでいろいろな科学者と会って話を聞いたのですが、そ
のなかにティム・バーナーズリーがいたのです。
 ティムとはCERNのカフェテリアで昼飯をとりながら話した
のですが、森田洋平氏はティムと会ったときの印象を次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WWWならばオペレーション・システムの違いとかを気にする
 ことなく、だれでも、どこからでも、自由に情報を引き出して
 使うことができる。そうなったら、世の中が大きく変わるんだ
 よ、と。そういうようなことを非常に熱心に説明してくれまし
 た。説明というより、切々と語りかけてきたというか。聞いて
 いて、感動しました。           ――森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムは森田氏らに「日本でもやれよ」といって、WWWの作
り方を書いた資料をくれたのです。森田氏はその場でCERNの
端末室を使わせてもらい、資料を参考にHTMLファイルの作成
に取りかかったのです。
 このようにして、ごく簡単なひな型ができると、森田氏は世界
中の高エネルギー物理学の研究施設が直結されているHEPネッ
ト経由でKEKにログインし、KEKのコンピュータに出来たば
かりのHTMLファイルを置いたのです。そして、ティムにその
アドレスをメールで送り、CERNのリンク集のページにKEK
を加えてもらったのです。
 そのときCERNのリンク集に登録されていたWWWサーバー
は10数個であったといいます。現在ゆうに10億を超えるとい
われるホームページが当時それだけしかなかったのです。
 その中に日本のKEKが仲間入りすることになったのです。こ
れが日本最初のホームページとなるのです。1992年9月30
日――スイスのジュネーブにあるCERNで森田洋平氏によって
それは作成されたのです。
 森田氏がティムに会った日、ティムはとても元気で情熱的に話
しかけてきたといいます。しかし、ティムは1992年の初めは
非常に落ち込んでいて元気がなかったというのです。それは、W
WWを発表したにもかかわらず、予想していたような反響がほと
んどなかったからです。
 そこで、1992年6月にティムは長期のサバティカル(研究
休暇)をとり、妻と一緒に旅に出ているのです。そして、その休
暇明けの9月に森田氏らと会ったのです。そのときはとても元気
であり、何か前途に希望が持てたような表情だったといいます。
旅行中に何があったのでしょうか。
 ティムはMITのLCS――コンピュータ科学研究室を訪問し
ボストン近郊で開かれるIETF(インターネット技術タスク・
フォース)の会合に出席しています。後から考えると、このとき
MITに行ったことが、後のティム・バーナーズリーの評価を不
動のものにすることになったのです。
 旅の終りにティムは、ハイパー・テキストの開発者であるテッ
ド・ネルソンをサンフランシスコの対岸にある高級リゾート地サ
ウサリートの自宅に訪ねています。そのとき、ティムはネルソン
に「がんばってくれ」と激励されたというのです。ティムが森田
氏らに会ったとき元気であり、情熱的であったのは、これが原因
だったと考えられます。
 1992年当時のティムは、このままCERNにいてもWWW
を発展させることはできないのではないかと考えており、旅行の
とき立ち寄ったMITのLCSにウェブのコンソーシアムを立ち
上げるアイデアを持ちかけたのです。
 LCSは、ウェブ・コンソーシアムの価値を認めて、ティムを
フルタイムのスタッフ・メンバーとして雇うと提案したのです。
正式のMITのメンバーではなく、LCSのメンバーにするとい
うのです。それは、ティムには博士号がなく、目だった学問的業
績もなかったので、MITのメンバーだと審査が通らないと考え
たのです。CERNにおけるティムの地位も数年単位の不安定な
給費研究員に過ぎなかったからです。
 実は、MITとしてはティムの研究を高く買っていたのです。
そこで、CERNには十分気を遣いながら、ティムをMITに引
き取ろうとしたのです。
 MITはCERNと協力して、「W3C」を設立します。W3
Cとは、次の言葉の省略です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      W3C World Wide Web Consortium
―――――――――――――――――――――――――――――
 MITはCERNに欧州の中心はCERN、米国の中心はMI
Tとし、当面ティムは米国に移るということでCERNからOK
をとっています。そのときCERNは新しい加速器を作ることに
なり、膨大な予算を必要としていて、ティムのやっているような
研究には予算を回せなくなったので、ティムの移籍には進んで賛
成をしたのです。かくして、ティムは事実上MITに移り、W3
Cの仕事をすることになったのですが、その後W3Cは大変な権
威を持つ大組織となっていくのです。CERNの幹部は人を見る
目がなかったのです。  
―― [インターネットの歴史 Part2/33]


≪画像および関連情報≫
 ・テッド・ネルソンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  テッド・ネルソンは米国の社会学者であり思想家であり、情
  報工学のパイオニアである。彼は1963年に「ハイパーテ
  キスト」という用語を生み出し、1965に発表した。彼は
  また、ハイパーメディア、トランスクージョン、Virtuality
  ――電子書籍システムの概念構造、Intertwingularity ――
  知識の相互関連性、テレディルドニクスといった用語も生み
  出した。彼の仕事の主要な推進力は、コンピュータを普通の
  人々に容易にアクセス可能にすることであった。彼の座右の
  銘は以下の通りである。『ユーザーインターフェイスは、急
  いでいる初心者が10秒以内に理解できるぐらい簡単にすべ
  きだ。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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