2014年06月03日

●「サッチャーが改革の時を得た理由」(EJ第3803号)

 英国のサッチャー元首相は、数々の特殊な状況のもとで首相に
登り詰めた人といえると思います。昨日のEJで触れたように、
サッチャーが首相になる直前の英国では、経済は「英国病」と呼
ばれるほどひどい状態になっており、英国民は労働党にも保守党
にも失望していたのです。
 サッチャーは1975年に保守党の党首選に出馬するのですが
彼女は、当時の保守党党首であるエドワード・ヒースを退陣させ
るための「あて馬」だったのです。ヒースは傲慢で保守党内部で
も評判が悪かったからです。
 しかし、当時ほとんどの英国民がまさかサッチャーが首相にな
るとは考えていなかったのです。彼女は、いわゆる保守本流では
ないし、政治とは無関係の化学者であり、その出自も「グランサ
ム(英国中東部)の食品店の娘」に過ぎなかったからです。
 しかし、1979年の総選挙はいつもと様相が違っていたので
す。英語人は伝統的に選挙のときは、中道路線を選ぶ傾向がある
のですが、このときは急進派のリーダーを求めたのです。それは
あまりにも経済状況が深刻で、「なんとか世の中を変えてもらい
たい」という雰囲気が英国中に充満していたからです。
 なかでも「公共部門の組合の力を弱めろ」という中産階級の支
持者から明確な委任を受けて、サッチャーはこの選挙で過半数を
はるかに超える議席を獲得して首相に就任したのです。
 サッチャー首相がまず手をつけたのは、インフレの克服です。
そのため、サッチャーは、マネタリズムと厳格な緊縮予算を徹底
させたのです。しかし、金利を引き上げたことにより、失業率は
急増したのです。1979年〜84年の英国の平均失業率は10
%を超えたのです。しかし、逆説的ながら、これが当時の英国の
最大のがんであった組合員の減少につながったといえます。
 さらに、サッチャーは、高額所得者への極端に高い累進課税を
軽減し、実体経済の成長による税収の増加を期待したのです。な
ぜなら、当時は高額所得者までやる気を失っていたからです。し
かし、これらの政策は国民にとって不評で、サッチャー首相の支
持を大幅に減らすことになったのです。あまりにも不公平であり
サッチャーは血も涙もない人間だと罵られたのです。これによっ
て、サッチャーの再選はほぼ絶望視されるようになります。
 そのとき起きたのが「フォークランド戦争」です。この戦争は
日本の尖閣諸島への中国の侵攻になぞらえて考えることができる
ので、その経緯を簡単に述べます。
 フォークランド諸島とは南大西洋上にある英国領の諸島であり
1833年から英国が実効支配を続けて、現在に至っています。
1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド
諸島のサウス・ジョージア島に2回にわたって寄航し、英国政府
に無断で民間人を同島に上陸させたのです。
 同諸島については、いろいろな争いがあったのですが、英国が
実効支配をしていたのです。おそらくアルゼンチンは英国の力が
衰えたことに加えて、女性の首相に何ができるかと見くびって侵
攻したものと思われます。
 しかし、サッチャーは男性顔負けの勇猛心を発揮したのです。
即日、サッチャー首相は、アルゼンチン政府に対し、民間人の強
制退去を求めたのですが、アルゼンチン政府はもちろん聞き入れ
なかったのです。
 サッチャー首相は原子力潜水艦の派遣を決定するとともに、米
国のレーガン大統領に対し、支援を要請したのです。しかし、そ
のとき、レーガン大統領はアルゼンチンに気を遣ってか、曖昧な
態度を取ったといいます。このさいサッチャー首相はレーガン大
統領に次のように訴えてレーガンを納得させたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、今回のように軍事力で国境を書き換えるということを
 黙認したら、国際社会は混乱に陥る。 ──サッチャー首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 4月2日にアルゼンチン正規軍がサウス・ジョージア島に侵攻
し占領しますが、英国海軍が応戦し、上陸して同島を奪還したの
です。しかし、アルゼンチン軍は航空攻撃で英国の艦船を撃沈す
るなど、当初は優位に戦いを進めたものの、英国軍は経験豊富な
陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国
の米国やECおよびNATO諸国の支援を受けた情報戦を有利に
進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削り、6月14日にはアルゼ
ンチン軍を正式に降伏させ、戦闘は終結したのです。
 安倍首相は、サッチャー元首相を尊敬しているといわれます。
同じような新自由主義政策をアベノミクスというかたちで実現さ
せようとしていることや、とくにサッチャーがレーガンを説得し
た言葉は、安倍首相の口癖になった次の言葉にそっくりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       力による領土の現状変更は許さない
                 ──安倍首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフォークランド戦争の勝利によってサッチャー政権は人気
を取り戻し、1983年の総選挙で勝利したのです。もし、この
戦争が起きなければ、サッチャーの再選はなかったものと思われ
ます。天はサッチャーに改革のための時を与えたのです。
 もう一つサッチャーにとって幸いだったのは、当時の野党であ
る労働党が選挙で到底勝つ見込みがないほどに左に傾いてしまっ
たことです。そのため、労働党のなかの穏健派が党を見限って離
党し、新党を結成したのです。これによって、反保守票は割れ、
その分サッチャーに有利に働くようになります。
 これは現在の日本の政治状況によく似ています。自民党が圧倒
的に強く、野党は細分化を繰り返し、さらに弱くなってしまって
いるからです。
 このようにして、サッチャー首相は、改革のためにさらに5年
の時間を手に入れたことになります。明日は、サッチャーと労組
の闘争について述べます。   ──[新自由主義の正体/17]

≪画像および関連情報≫
 ●フォークランド戦争/アルゼンチンの侵攻はバレていた
  ―――――――――――――――――――――――――――
  南大西洋・フォークランド諸島にアルゼンチンが侵略し、英
  国が奪還したフォークランド紛争の英公文書が30年ぶりに
  公開された。公開された公文書によると、「鉄の女」と呼ば
  れたサッチャー英首相でさえ、約1週間前にアルゼンチンの
  侵略を抑止する計画を英国防省から提示された際、「アルゼ
  ンチンがそんなバカげていて、愚かな挙に出るだろうか」と
  取り合わなかった。アルゼンチンの侵攻を確信したのは、X
  デー(1982年4月2日)のわずか2日前で、「そのとき
  フォークランド諸島が侵略されたら取り戻すことができるか
  どうか誰も答えることができなかった」とサッチャー首相は
  紛争後に開かれた非公開のフォークランド紛争検証委員会で
  証言していた。あのサッチャー首相も、アルゼンチンのガル
  ティエリ軍事政権がフォークランド侵攻というギャンブルに
  打って出るとは想像もしていなかったことが公文書から浮き
  彫りになっている。英国とアルゼンチンの調停役を務めた米
  国は中立性を保ち、和平交渉を進めようと、英国がフォーク
  ランド諸島を奪還するため、サウスジョージア島に上陸する
  計画を事前にアルゼンチンに伝える考えを英国に打診してい
  た。これに対し、英国は上陸計画をアルゼンチンに事前に漏
  らされたら、英軍に甚大な被害が出ると反対、結局、米国は
  黙っておくことを約束した。さらに衝撃的な事実は、英国が
  少なくない艦船や兵士の犠牲を払って、軍事的勝利をものに
  する2週間前、レーガン米大統領は深夜サッチャー首相に電
  話をかけ、「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合い
  の用意があることを示すべきだ」と迫っていた。
                   http://bit.ly/1pwyyIx
  ―――――――――――――――――――――――――――

サッチャーとレーガン.jpg
サッチャーとレーガン
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新自由主義の正体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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