登り詰めた人といえると思います。昨日のEJで触れたように、
サッチャーが首相になる直前の英国では、経済は「英国病」と呼
ばれるほどひどい状態になっており、英国民は労働党にも保守党
にも失望していたのです。
サッチャーは1975年に保守党の党首選に出馬するのですが
彼女は、当時の保守党党首であるエドワード・ヒースを退陣させ
るための「あて馬」だったのです。ヒースは傲慢で保守党内部で
も評判が悪かったからです。
しかし、当時ほとんどの英国民がまさかサッチャーが首相にな
るとは考えていなかったのです。彼女は、いわゆる保守本流では
ないし、政治とは無関係の化学者であり、その出自も「グランサ
ム(英国中東部)の食品店の娘」に過ぎなかったからです。
しかし、1979年の総選挙はいつもと様相が違っていたので
す。英語人は伝統的に選挙のときは、中道路線を選ぶ傾向がある
のですが、このときは急進派のリーダーを求めたのです。それは
あまりにも経済状況が深刻で、「なんとか世の中を変えてもらい
たい」という雰囲気が英国中に充満していたからです。
なかでも「公共部門の組合の力を弱めろ」という中産階級の支
持者から明確な委任を受けて、サッチャーはこの選挙で過半数を
はるかに超える議席を獲得して首相に就任したのです。
サッチャー首相がまず手をつけたのは、インフレの克服です。
そのため、サッチャーは、マネタリズムと厳格な緊縮予算を徹底
させたのです。しかし、金利を引き上げたことにより、失業率は
急増したのです。1979年〜84年の英国の平均失業率は10
%を超えたのです。しかし、逆説的ながら、これが当時の英国の
最大のがんであった組合員の減少につながったといえます。
さらに、サッチャーは、高額所得者への極端に高い累進課税を
軽減し、実体経済の成長による税収の増加を期待したのです。な
ぜなら、当時は高額所得者までやる気を失っていたからです。し
かし、これらの政策は国民にとって不評で、サッチャー首相の支
持を大幅に減らすことになったのです。あまりにも不公平であり
サッチャーは血も涙もない人間だと罵られたのです。これによっ
て、サッチャーの再選はほぼ絶望視されるようになります。
そのとき起きたのが「フォークランド戦争」です。この戦争は
日本の尖閣諸島への中国の侵攻になぞらえて考えることができる
ので、その経緯を簡単に述べます。
フォークランド諸島とは南大西洋上にある英国領の諸島であり
1833年から英国が実効支配を続けて、現在に至っています。
1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド
諸島のサウス・ジョージア島に2回にわたって寄航し、英国政府
に無断で民間人を同島に上陸させたのです。
同諸島については、いろいろな争いがあったのですが、英国が
実効支配をしていたのです。おそらくアルゼンチンは英国の力が
衰えたことに加えて、女性の首相に何ができるかと見くびって侵
攻したものと思われます。
しかし、サッチャーは男性顔負けの勇猛心を発揮したのです。
即日、サッチャー首相は、アルゼンチン政府に対し、民間人の強
制退去を求めたのですが、アルゼンチン政府はもちろん聞き入れ
なかったのです。
サッチャー首相は原子力潜水艦の派遣を決定するとともに、米
国のレーガン大統領に対し、支援を要請したのです。しかし、そ
のとき、レーガン大統領はアルゼンチンに気を遣ってか、曖昧な
態度を取ったといいます。このさいサッチャー首相はレーガン大
統領に次のように訴えてレーガンを納得させたのです。
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もし、今回のように軍事力で国境を書き換えるということを
黙認したら、国際社会は混乱に陥る。 ──サッチャー首相
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4月2日にアルゼンチン正規軍がサウス・ジョージア島に侵攻
し占領しますが、英国海軍が応戦し、上陸して同島を奪還したの
です。しかし、アルゼンチン軍は航空攻撃で英国の艦船を撃沈す
るなど、当初は優位に戦いを進めたものの、英国軍は経験豊富な
陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国
の米国やECおよびNATO諸国の支援を受けた情報戦を有利に
進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削り、6月14日にはアルゼ
ンチン軍を正式に降伏させ、戦闘は終結したのです。
安倍首相は、サッチャー元首相を尊敬しているといわれます。
同じような新自由主義政策をアベノミクスというかたちで実現さ
せようとしていることや、とくにサッチャーがレーガンを説得し
た言葉は、安倍首相の口癖になった次の言葉にそっくりです。
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力による領土の現状変更は許さない
──安倍首相
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このフォークランド戦争の勝利によってサッチャー政権は人気
を取り戻し、1983年の総選挙で勝利したのです。もし、この
戦争が起きなければ、サッチャーの再選はなかったものと思われ
ます。天はサッチャーに改革のための時を与えたのです。
もう一つサッチャーにとって幸いだったのは、当時の野党であ
る労働党が選挙で到底勝つ見込みがないほどに左に傾いてしまっ
たことです。そのため、労働党のなかの穏健派が党を見限って離
党し、新党を結成したのです。これによって、反保守票は割れ、
その分サッチャーに有利に働くようになります。
これは現在の日本の政治状況によく似ています。自民党が圧倒
的に強く、野党は細分化を繰り返し、さらに弱くなってしまって
いるからです。
このようにして、サッチャー首相は、改革のためにさらに5年
の時間を手に入れたことになります。明日は、サッチャーと労組
の闘争について述べます。 ──[新自由主義の正体/17]
≪画像および関連情報≫
●フォークランド戦争/アルゼンチンの侵攻はバレていた
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南大西洋・フォークランド諸島にアルゼンチンが侵略し、英
国が奪還したフォークランド紛争の英公文書が30年ぶりに
公開された。公開された公文書によると、「鉄の女」と呼ば
れたサッチャー英首相でさえ、約1週間前にアルゼンチンの
侵略を抑止する計画を英国防省から提示された際、「アルゼ
ンチンがそんなバカげていて、愚かな挙に出るだろうか」と
取り合わなかった。アルゼンチンの侵攻を確信したのは、X
デー(1982年4月2日)のわずか2日前で、「そのとき
フォークランド諸島が侵略されたら取り戻すことができるか
どうか誰も答えることができなかった」とサッチャー首相は
紛争後に開かれた非公開のフォークランド紛争検証委員会で
証言していた。あのサッチャー首相も、アルゼンチンのガル
ティエリ軍事政権がフォークランド侵攻というギャンブルに
打って出るとは想像もしていなかったことが公文書から浮き
彫りになっている。英国とアルゼンチンの調停役を務めた米
国は中立性を保ち、和平交渉を進めようと、英国がフォーク
ランド諸島を奪還するため、サウスジョージア島に上陸する
計画を事前にアルゼンチンに伝える考えを英国に打診してい
た。これに対し、英国は上陸計画をアルゼンチンに事前に漏
らされたら、英軍に甚大な被害が出ると反対、結局、米国は
黙っておくことを約束した。さらに衝撃的な事実は、英国が
少なくない艦船や兵士の犠牲を払って、軍事的勝利をものに
する2週間前、レーガン米大統領は深夜サッチャー首相に電
話をかけ、「アルゼンチンを武力で撃退する前に、話し合い
の用意があることを示すべきだ」と迫っていた。
http://bit.ly/1pwyyIx
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サッチャーとレーガン
讧