れる改革を断行したのでしょうか。いや、なぜ、改革を断行でき
たのかというべきかもしれません。その改革を断行するためには
いくつかの条件が整う必要があるからです。
サッチャリズムは、供給サイドを変える改革です。規制緩和を
行い、国営企業を民営化し、法人税を減税する一方で消費税の増
税を実施する改革です。これによって「潜在成長率」を押し上げ
ることを狙っています。
しかし、供給サイドの改革は、既得権者に「痛み」を強いるの
で、政治的実現性はかなり困難になります。それをサッチャーは
11年半という戦後最長の長期にわたって首相を務めたのです。
そういう意味でサッチャーは偉大であるといえます。
日本でこの手の改革をやると、既得権者の抵抗が強く、政策が
中途半端になり、強行すると選挙でしっぺ返しを食って、短期政
権で終わってしまうのです。
そういう意味で小泉政権は例外で、「改革なくして成長なし」
をスローガンにして、需要サイドの政策を置き去りにして、供給
サイドの改革を5年間断行しています。しかし、11年半のサッ
チャーの改革に比べれば半分以下でしかないのです。ここにサッ
チャーの凄さがあります。
供給サイドの改革を実行するためには、国民の「合意の形成」
が必要になります。新自由主義という言葉は、デヴィット・ハー
ヴェイという英国の地理学者が広めた言葉です。ハーヴェイは、
英国の地理学者で、マルクス主義を地理学に応用した批判的地理
学の第1人者です。ハーヴェイは、新自由主義における「合意の
形成」について自著で次のように述べています。
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新自由主義化はどのようにして、そして誰によって実現された
のだろうか?1970年代のチリやアルゼンチンのように、そ
れが急激かつ残酷、着実に進んだ国については容易に答えられ
る。伝統的な上層階級とアメリカ政府に後押しされた軍事クー
デターの発生、それに続いて、彼らの権力を脅かしていた労働
運動と都市の社会運動の内部で形成されたあらゆる紐帯に対す
る猛烈な弾圧がそれだ。だが1979年以後の、通例サッチャ
ーとレーガンに帰せられる新自由主義革命は、民主主義的な手
段によって達成されなければならなかった。この大規模な転換
を引き起こすためには、選挙に勝利するための、かなり広範囲
にわたる民衆の政治的な同意を、事前に形成することが必要で
あった。一般にこの同意の根拠となるのが、アントニオ・グラ
ムシのいう「常識」(それは「共通に持たれる感覚」と定義さ
れる)である。──デヴィッド・ハーヴェイ著/監訳/渡辺治
『新自由主義/その歴史的展開と現在』/作品社刊
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1960年〜1970年代の英国は「ヨーロッパの病人」と呼
ばれ、労使紛争の多さと経済成長で不振をきわめていたのです。
それを数値で示すと、次のようになります。
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1970〜79年 1960〜69年
GDP成長率 2.4 % 3.2 %
インフレ率 12.5 % 3.5 %
経常収支(GDP比) ▲0.2 % 0.2 %
財政収支(GDP比) ▲5.0 % ▲2.5 %
失業率 3.3 % 1.5 %
──ウィキペディア
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第2次世界大戦後の1946年に英国で政権を取ったのは、労
働党のアトリー政権です。この政権は「ゆりかごから墓場まで」
と呼ばれる社会保障制度の実現を目指していたのです。つまり、
福祉の充実した国家を目指したのです。
国民が原則無料で医療を受けることが出来る国民保健サービス
法や国民が老齢年金と失業保険を受け取ることが出来る国民保険
法の制定、1948年には政府が生活困窮者を扶助する国民扶助
法と政府が青少年を保護する児童法を制定したのです。
1946年〜51年にアトリー政権は、石炭、電力、ガス、鉄
鋼、運輸などの産業を次々と国有化したのです。1951年には
保守党のチャーチルが政権を奪還し、鉄鋼や運輸などの産業を民
営化したものの、1964年に政権は再び労働党に戻り、ウイル
ソン政権は、民営化された鉄鋼や運輸などの産業を再び国有化に
戻しています。
さらに第2次ウィルソン政権では1975年に自動車産業の国
有化を行い、1977年のキャラハン政権では、航空宇宙産業ま
で国有化してしまうのです。
こんなことをすれば経済が停滞するのは当然です。これらの国
有化などの産業保護政策は、英国資本による国内製造業への設備
投資を減退させ、資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るよ
うになります。
国有企業になったことにより、経営改善努力は行われず、製品
の品質は劣化し、国際競争力が失われていったのです。輸出が減
少し、輸入が増加して、国際収支は悪化したのです。
止めを刺したのは1973年〜74年のオイルショックです。
これによって英国は、経済の停滞と物価の上昇が共存するスタグ
フレーションに陥ったのです。失業率は増大し、原材料費と賃金
の高騰が原因で生産性が低下し、通貨ポンドの価値は下落たので
す。しかし、通貨の価値下落にもかかわらず、国際収支が改善す
ることはなく、国民はやる気を失い、ストライキが連発するよう
になります。
これらのストによって病院は機能せず、学校は休校になり、公
共サービスが機能不全に陥ったのです、英国民はこの時期の冬の
ことを「不満の冬」と呼んでいます。サッチャーはこういう状況
を背景に登場したです。 ──[新自由主義の正体/16]
≪画像および関連情報≫
●大英帝国の落日・英国病/よくわかりたい歴史
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イーデンの辞任をうけて、外務大臣だったハロルド・マクミ
ランが首相となります。マクミランは、イーデンの外交路線
を引き継ぎ、欧州経済共同体(EEC)に参加を表明。これ
を拒否されると、欧州自由貿易連合(EFTA)を発足させ
EECを取り込んでいこうとします。しかし、国内を見れば
英国経済はどんどん疲弊するばかりでした。福祉国家化した
英国は、その財源として過剰な累進課税を採用し、労働意欲
がどんどん失われていきます。そして、ダグラス・ヒューム
を経て、ハロルド・ウィルソンが首相となります。ウィルソ
ン政権は、アトリー以来の労働党政権です。英国の疲弊を止
められない保守党に期待する事を止めた英国国民は、福祉国
家をよりよく運営できると謳った労働党に政権を与えます。
ですが、もとはと言えば労働党が敷いたレールを過剰な速度
で走ったがために疲弊した英国経済は、ブレーキをかける事
でしか解消できるはずもありません。そして、福祉路線にブ
レーキをかける事で利益を失う労働組合や貧困層は、労働党
の選挙基盤でもあります。当然、労働党に改革などできるは
ずもなく、労働党は政権を失います。しかし、保守党にもど
うにもできなかったが故にウィルソン政権が誕生したわけで
すから、その政権が、保守党のエドワード・ヒースに戻った
ところで、やはりどうにもできません。
http://amba.to/1oU0tj7
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デヴィッド・ハーヴェイ