2014年03月31日

●「新古典派経済学についての大論争」(EJ第3760号)

 EJで経済学の学問的議論をするつもりは一切ありませんが、
少しミルトン・フリードマン(故人は敬称略)について書くこと
にします。フリードマンは、1976年にノーベル経済学賞を受
賞している経済学者です。
 なぜかというと、フリードマンはかなり誤解されている経済学
者であるからです。それにフリードマンの考え方は、現在、各国
の経済政策にいろいろな影響を与えています。また、フリードマ
ンを知ることによって、現在の経済政策を理解する一助にもなる
と思うからです。
 数学者の藤原正彦氏が自著のベストセラー『国家の品格』で、
フリードマンにふれている部分があるので、引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から
 ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再
 び古典派経済学を持ち出しました。もし経済がうまく行かなけ
 れば、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているか
 らだ、とまで言う理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、
 新自由主義経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノ
 ミストなどにもてはやされているのです。  ──藤原正彦著
               「国家の品格」/新潮社141
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように考えている日本人は多いと思います。しかし、この
藤原氏の論説に対して、経済学者にして経済評論家の池田信夫氏
は、自身のブログで次のように痛烈に批判しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは徹頭徹尾でたらめである。ハイエクやフリードマンは、
 当時の主流だった新古典派に挑戦したのであって、「古典派経
 済学を持ち出した」のではない。おまけに藤原氏は、シカゴ学
 派と新古典派を混同している――と私が編集者(『電波利権』
 と同じ担当者)に指摘したら、新しい版では「新自由主義経済
 学」と訂正されたが、そんな経済学は存在しない。
                   http://bit.ly/1k1YO7H
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かに藤原氏の主張にはいくつか誤りがあります。しかし、藤
原氏は数学者ですし、経済学者ではないのです。それを専門家で
ある池田氏が特定部分を切り取って、激しい言葉で非難するのは
いささか大人げないと思います。
 実は、藤原正彦氏は、『国家の品格』において、上記の記述の
前に次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 市場原理が猛威をふるっています。各自が利己的に利潤を追求
 していれば、「神の見えざる手」に導かれ、社会は全体として
 調和し豊かになる、というものです。自由競争こそがすばらし
 い、国家が規制したりせず自由に放任する、すなわち市場にま
 かせるのが一番よい、というものです。これは、アダム・スミ
 スが『国富論』で示唆し、続く古典派経済学者たちが完成させ
 た理論です。これがあっては、現代に生きる人々が金銭至上主
 義になるのは仕方ありません。金銭亡者になることが社会への
 貢献になるのですから。    ──藤原正彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、古典派経済学のことを述べています。古典派経済学と
は、18世紀後半から19世紀前半におけるアダム・スミス、デ
ヴィッド・リカード、トマス・ロバート・マルサスおよび、ジョ
ン・スチュアート・ミルなどの英国の経済学者に代表される経済
学の学説のことです。
 自由主義思想を基礎にすえており、経済については国家による
統制や干渉を排除し、個人の自由な利益追求活動に任せるべきで
あるとするレッセ‐フェール(放任主義)という考え方に立つの
です。もっと具体的にいうと、政府による国民経済への統制と干
渉を排除して、個人や企業の自由競争にまかせて経済を営むべき
であるとするのです。
 藤原氏はこの経済に対する考え方を「呆れるほどの暴論」と切
り捨て、「神の見えざる手」が何も解決しないことは、アダム・
スミス以来の、戦争、植民地獲得、恐慌に明け暮れた2世紀がそ
れを証明して余りあるといっています。市場原理主義はその流れ
をくんでいるといっているわけです。
 この古典派経済学に対して批判を加えた人物として、藤原氏は
ケインズを上げ、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 イギリスの経済学者ケインズが、これを1930年代になって
 初めて批判しました。当然です。それまで正面から批判する者
 のいなかったことの方が驚きです。ケインズは、国家が公共投
 資などで需要を作り出すことの重要性を指摘したのです。これ
 は、「ケインズ革命」と呼ばれるほどの驚きで迎えられました
 が、これに従ったアメリカのその後の成功があって定着しまし
 た。             ──藤原正彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そしてその後に前記のアメリカの経済がうまくいかなくなって
きた1970年代から」の文になるのです。これなら話は通るは
ずです。古典派経済学の次にケインズ経済学が登場し、さらにそ
れを批判する新古典派経済学が出てくるのです。
 新古典派経済学は、1870年代以降の欧州において発展し、
第2次大戦後の米国で体系化された学問で、市場価格を通した需
給調整機能を重視する自由主義的経済体制を目指す経済学です。
ケンブリッジ学派とも呼ばれるA.マーシャルがその代表的な学
者のひとりであって、ハイエクやフリードマンではないのです。
 しかし、それが古典派経済学の伝統を受け継いでいることは確
かなのです。藤原氏が「古典派経済学を再び持ち出した」といっ
ていることは必ずしも間違いではないのです。この論争は、明日
のEJでも続けます。    ──[消費税増税を考える/58]

≪画像および関連情報≫
 ●「神の見えざる手」とは何か/ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
  市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果
  として社会全体において適切な資源配分が達成される、とす
  る考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会
  に対しては何の利益も齎さないように見えるが、各個人が利
  益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい
  状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミス
  は、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節
  されると考えた。元々はキリスト教の終末思想に由来し「人
  類最後の最終戦争には信徒は神の見えざる手により救済され
  天国へ行くことができる」などの教えからくるもので、これ
  を経済論に比喩として用いたものである。『国富論』には1
  度しか出てこない言葉であるが、多くの経済議論に用いられ
  非常に有名となっている。また、神の見えざる手ともいわれ
  るが、『国富論』には「神の」という部分はない。「人は自
  分自身の安全と利益だけを求めようとする。この利益は、例
  えば「莫大な利益を生み出し得る品物を生産する」といった
  形で事業を運営することにより、得られるものである。そし
  て人がこのような行動を意図するのは、他の多くの事例同様
  人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見え
  ざる手によって導かれた結果なのである。
   ──『国冨論』第4編「経済学の諸体系について」第2章
                   http://bit.ly/1k8tqEy
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池田信夫氏と藤原正彦氏.jpg
池田 信夫氏と藤原 正彦氏
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 消費税増税を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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