2013年07月23日

●「自民党離党後の小沢の軌跡を辿る」(EJ第3594号)

 1982年11月のことです。中曽根内閣が発足したときのこ
とです。そのとき小沢一郎氏は、当選5回生の中堅議員で、自民
党総務局長をやっていたのです。
 1983年は、4月に統一地方選、6月に参院選、12月には
衆院選の3大選挙が控えていたのです。小沢氏は総務局長として
全国を走り回ったのです。しかし、この年の10月にロッキード
裁判で受託収賄容疑に問われていた田中角栄元首相に一審有罪判
決が下されたことにより、自民党には大逆風が吹いたのです。
 その結果、12月の総選挙では、小沢氏自身も大苦戦をしてい
ます。NHKの開票速報では「落選」のテロップが出たのですが
最後まで最下位の社会党候補と争い、何とか競り合い、次点との
差が2071票の薄氷を踏む6回目の当選を勝ち取ったのです。
選挙に強いといわれる小沢一郎の唯一の苦戦だったのです。
 1993年6月に小沢氏は政治改革を目指す同志44人と共に
自民党を離党し、新生党を結成します。そして、1993年7月
の総選挙では大幅に議席を増やし、新生党は63人の勢力になっ
たのです。
 それからというもの、日本の政界は激動期を迎えます。多くの
新党が結成されては解党し、さらに新党を誕生させるなど、政治
情勢は混迷します。その中心にはつねに小沢氏がいたのです。簡
単にその流れを振り返ってみることにします。
 1993年8月に、小沢氏の努力によって細川護煕氏を首班と
する非自民連合政権が誕生。これによって、自民党ははじめて下
野することになったのです。そして、1994年1月に小沢氏念
願の政治改革関連4法案が成立したのです。
 ところが、1994年4月に佐川便事件で細川首相が辞任。次
期首相として羽田孜氏を首相として指名し、羽田内閣が誕生。し
かし、その直後に、新生党、日本新党、民社、自由党・改革の会
が衆院会派「改新」を結成したことをめぐって社会党が連立を離
脱し、6月に羽田内閣は総辞職したのです。そして、村山富市社
会党委員長を首相とする「自社さ」政権が発足。結果として、こ
れが社会党(現社民党)凋落の原因になります。
 1994年12月に、日本新党、新生党、公明党が解党し、衆
参国会議員214名が参加して新進党を結成します。小沢氏とし
ては、これが自民党と並ぶ二大政党のひとつになると考えていた
と思われます。
 1995年は、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事
件があり、日本に暗雲が漂いはじめます。そして7月には第17
回参院選があり、自民49、社会16と惨敗したものの、新進党
は40と議席を倍増し、野党第一党に躍進したのです。
 1996年1月に村山首相が辞任。橋本龍太郎氏が第82代首
相に就任します。国会は住専問題で空転が続き、大荒れになりま
す。そしてこの年の9月に民主党が結成されたのです。鳩山由紀
夫、菅直人氏ら衆参合わせて57人が結集しています。
 同じ年の10月の総選挙で自民党は239人と復調し、11月
には自民党単独政権が発足します。第2次橋本内閣がスタートし
たのです。ここで新進党がしっかりしていれば、二大政党ができ
ていたのですが、新進党内では内紛が続き、党内がまとまらなく
なっていたのです。
 まず、12月に羽田孜氏ら衆参国会議員13人が新進党を離党
し、太陽党を結成します。続いて1997年6月に、細川元首相
が新進党を離党したのです。そこで小沢氏は新進党の解党を決断
し、1998年1月に自由党を旗揚げしたのです。衆参あわせて
54人の小党からのスタートです。
 一方、1998年4月に新進党を離れた諸会派が民主党に合流
し、衆院96、参院38の計131人の勢力になります。代表は
菅直人氏、幹事長は羽田孜氏です。民主党は漁夫の利を得て党勢
を拡大させたのです。
 その年の7月の参院選を前にさかんにいわれたのが、「小沢再
起不能説」です。どう考えても自由党は、新進党の負の遺産を背
負っているし、おそらく7月の参院選で惨敗し、消滅するのでは
ないかとみられていたのです。
 しかし、このときの小沢氏はきわめて積極的だったのです。自
由党を「真の保守」と謳い、「脱官僚」と「国民が主役の政治実
現」を前面に押し出し、大胆な構造改革を掲げて国会論戦の先頭
に立ったのです。その結果、多くの予想を覆して国民支持のバロ
メーターといわれる比例区の総得票数で520万票を獲得したの
です。このとき、自民党は惨敗し、日本共産党も票を伸ばしたの
で、参議院では野党が過半数を握ったのです。
 橋本内閣が退陣し、小渕内閣になります。小渕首相と親しい小
沢氏は、自自連立、自自公連立を結び、与党として国会法の改正
などの実現に取り組んだのです。
 しかし、小渕首相は別として、小沢アレルギーの強い自民党議
員の根強い反対で、連立合意した政策がいくつも実施できないま
まになっていたのです。そして2000年4月1日に、自自公3
党で党首会談を行ったのです。
 しかし、そのときには野中自民党幹事長が、小沢氏が連立離脱
をする可能性が高いと考えて、自由党議員をひそかに説得して、
自由党から離党させる工作が進んでいたのです。もちろん、自民
党入りをちらつかせての説得です。
 予定外のことが起きたのは、翌日の2日に小渕首相が脳梗塞で
倒れたことです。小渕内閣は小渕首相が昏睡状態のまま、4月4
日に総辞職し、密室談合で森喜朗政権が発足したのです。
 4月3日に自由党は連立政権から離脱することを決定します。
しかし、野中幹事長に唆されて、これに反対する26名が小沢氏
を裏切って「保守党」を結成し、扇千景参院議員を党首として、
自民党と連立を組んで、自公保連立になったのです。
 それから2ヶ月後の6月、森内閣は解散し、総選挙が行われた
のです。そのとき、消滅必至といわれていた自由党は22議席を
獲得し、とくに比例区では660万票もの驚異的な票を伸ばして
快勝したのです。      ── [自民党でいいのか/16]

≪画像および関連情報≫
 ●「保守党」結成のいきさつ
  ―――――――――――――――――――――――――――
  自由党国会議員のうち26名が小沢に反旗を翻して離党し、
  「保守党」を結成した。扇千景参院議員が党首に就任し、森
  自公保連立政権に参加していく。そして自民党メディアをた
  きつけて「小渕首相を病気に追い込んだのは、小沢一郎だ」
  と、小沢叩きのキャンペーンをやらせたのだ。それでも小沢
  さんは「自由党を離れるかどうかは、すべて議員個人の見識
  にまかせよ」と、指示していた。ただ小池百合子衆院議員だ
  けは、彼女と親しい事務局スタッフを通じて慰留に努めてい
  た。小池さんは前年秋以来、自由党の独自路線を主張し小沢
  党首に協力していた。いわば自由党の広告塔の役割をしてい
  たのが小池さんだった。4月2日深夜、八尋護白由党事務局
  長から私に電話があった。その電話で開口一番、「小池さん
  の説得に失敗した。小沢党首から直接、次の稔選挙で近幾ブ
  ロック比例1位にすると、口説いてもらうしかない。小沢党
  首を説得してほしい」と懇願されたのだ。すぐに深夜、小沢
  党首を電話で起こし説明したところ、「私は何もしないつも
  りだったが、小池さんに電話するよ」と応じてくれた。10
  分後、「話をした。小池さんから自由党が比例区で当選者を
  出せると思っていますかと言われたよ」との電話があった。
  結局、小池さんは離党することになつた。
               ──平野貞夫著/ビジネス社刊
     『真説/小沢一郎謀殺事件/日本の危機は救えるか』
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小池百合子氏/小沢一郎氏.jpg
小池 百合子氏/小沢 一郎氏
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 自民党でいいのか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
小沢は、田中と竹下の金権政治の継承者であり、政治は数、数は力、力はカネという戦後日本の衆愚政治の体現者にすぎない。自己の政治権力のために離合集散を繰り返し、自らが制度化した政党助成金だけを基準にして政党の結成と離脱を繰り返し、日本国民の税金を食い物にしてきた、親中韓スパイの親玉である。このように、汚れた、政界渡り鳥を高く評価する者たちは、今回の参院選における小沢の生活の党のゼロ議席を反省出来ない、過去の小沢幻想にしがみつく偏屈者である。
Posted by 国家主義者 at 2013年07月23日 12:03
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