2013年05月21日

●「毛沢東とはどういう人物だったか」(EJ第3550号)

 毛沢東というのはどういう人物だったのでしょうか。中国の貧
困層には、根強い毛沢東信者がたくさんいます。それは毛沢東の
時代を「貧しいけれど平等だった時代」と懐かしくとらえており
同じ貧しいのなら、あの時代に回帰したいと考えているのです。
しかし、毛沢東には次の「2つの顔」があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.強い指導者
           2.専制の暴君
―――――――――――――――――――――――――――――
 毛沢東は、大衆が生活と生産の労苦を共にする人民公社を作り
平等なユートピア社会を築こうとしたのです。そして当時の強国
である米国やソ連を敵に回して戦う英雄というイメージを作り上
げたのです。これが大衆と共に歩む「強い指導者」としての毛沢
東のオモテの顔なのです。
 しかし、その一方で毛沢東は自分の政治的野心を満足させるた
め、法を無視し、政敵を容赦なく弾圧したのです。そういう毛沢
東を一般大衆は「強い指導者」として肯定的にとらえていたので
す。これが「専制の暴君」としての毛沢東のウラの顔です。
 毛沢東は「人民のために奉仕する」という大衆路線を強力に推
進したのですが、結局大衆は政治闘争に動員され、利用されたに
過ぎなかったのです。しかし、一般大衆は、毛沢東一派による自
らの暗部を隠蔽する教育や宣伝に騙され、改革開放から取り残さ
れ、貧困であっても、それを「貧しくても平等」と美化する路線
を支持するようになっていったのです。それは社会にそれなりの
一定の安定をもたらしていたといえます。
 当時の中国の一般大衆は、共産党に造反するとか、暴動を起こ
すとか、抗議デモをやるとか、そんなことはあり得ないほど従順
だったのです。皆が毛沢東マジックにひっかかってしまっていた
のです。それでも、毛沢東は一般大衆が少しでも不満を持つ状態
が起きると、闘争などを起こしてそういう芽を摘んでいったので
す。文化大革命などは毛沢東が自ら作り出したものなのです。
 ジニ係数というものがあります。ジニ係数とは、社会における
所得分配の不平等さを測る指標であり、0〜1までの数値で、数
値が1に近づくほど格差が大きく、警戒ラインの0.4 を上回る
と社会不安が広がるとされています。
 2013年1月18日、中国は久しぶりに2012年度のジニ
係争を発表したのです。0.474 です。昨年11月の中国共産
党大会の政治報告で、所得倍増計画が明示されたのを受けての公
表と思われます。このように中国は国の都合で数字を公表したり
しなかったりするのです。
 しかし、上海の中欧国際工商学院の許小年教授は、発表された
ジニ係数について「偽りの数字だ」とコメントし、実際の格差は
もっと大きいとの見方を示しています。許小年教授は昨年12月
には中国人民銀行(中央銀行)などの調査によると、中国のジニ
係数は「2010年に0.61 に達した」とされており、公式統
計との乖離が問題となっています。
 「0.61」 がもし本当だとすると、北朝鮮よりもひどいとい
うことになります。この中国のジニ係数について石平氏と宮崎正
弘氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 石 :むしろいまの北朝鮮が中国の毛沢東時代とよく似ている
    んです。ひとにぎりの高級幹部がかなり裕福だという社
    会構造ですね。金一族と一部の軍人だけが賛沢に暮らし
    ている。国民大半は平等に貧困です。平等に貧困、だか
    らジニ係数はむしろ低い。むしろ中国より低いです。み
    んなが同じように飯を食えない。国民の90パーセント
    が飯をちゃんと食えていないんです。
 宮崎:だから中国のジニ係数もずっと今まで0.43〜0.44
    ぐらいだったのが、いきなり0.62 というのは、本当
    に特権階級だけが富をカジっちゃっていることの表れな
    んですね。          ──石平/宮崎正弘著
     「2013年後期の『中国』を予測する」/ワック刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題なのは、毛沢東が大変贅沢していたことです。別荘を何十
軒も持っていて、愛人が何百人といたそうです。しかし、贅沢を
していたのはほんの一部で、学者などの知識人や労働者も等しく
貧乏だったのです。しかも階級史観からいえば、知識人よりも労
働者の方が上であり、圧倒的多数の労働者はそんなことで優越感
を持っていたといいます。
 毛沢東がおかしくなったのは、1950年代後半からです。自
信過剰になり、徐々に冷徹なリアリズムを失い、空疎なイデオロ
ギーに凝り固まってしまったのです。そして、毛沢東の壮大な愚
行といわれる大躍進政策の実行に続いて、文化大革命を引き起こ
したのです。
 少しでも中国の経済を良くしようとする劉少奇国家主席やケ小
平総書記などの指導者を毛沢東は「資本主義の道を歩むもの」と
して断罪し、大衆運動による打倒の対象として失脚に追い込んだ
のです。そして空疎なイデオロギーに基づく文化大革命が10年
もの長きにわたって続き、中国共産党は崩壊寸前のところまで追
いつめられたのです。
 そういう中国を救ったのは、3度の失脚を経験したケ小平だっ
たのです。ケ小平は文革終了後の1977年に復権すると、中国
共産党を空疎なイデオロギーから脱却させ、徹底的な現実路線に
導いたのです。
 復権したケ小平は3つの国を訪問したのです。それは自分の頭
を切り換えるためであり、それによって中国を再生させようとし
たのです。その3つの国とは、第1に日本、第2にシンガポール
そして第3に米国です。
 しかし、ケ小平が3つの国から学んだ経済重視の改革開放路線
によって経済的に成長した中国は、現在、再び大きな危機を迎え
ているのです。          ─── [新中国論/48]

≪画像および関連情報≫
 ●毛沢東の光と影/ユン・チアン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本でも、一時評判になった「ワイルド・スワン」(上下)
  という本を読んでみた。この本はロンドン大学で教鞭を執っ
  ているユン・チアン女史が著した、祖母、母、娘三代に及ぶ
  女性の目で見た中国現代史である。著者は、この本の中で毛
  沢東の政策が、中国の民衆にどれほど大きな犠牲を強いたか
  歯に衣着せぬ調子で詳述している。例えば、毛沢東はその詩
  人的着想から大躍進政策をスタートさせた。全国の農村に原
  始的な溶鉱炉を築かせて、製鉄事業に着手させたのだ。農民
  は農作業を放棄して、鉄の生産を競い合いあったから、農業
  生産物は激減した。燃料の薪を手に入れるために樹木は切り
  倒されて、山は丸坊主になった。この結果激しい飢饉が起こ
  り、中国全体で3000万人もの餓死者が出たといわれる。
  幼児を誘拐して来て殺し、その肉をウサギの干し肉と偽って
  売るような悲惨な事件も起きている。これほどの犠牲を払っ
  て生産した鉄は、粗悪でとても使い物にならなかった。大躍
  進政策の失敗もあって、実権を劉少奇一派に譲らざるを得な
  かった毛沢東は、雌伏数年の後に紅衛兵を道具に使って文化
  大革命を起こす。当時、中学生だった著者も紅衛兵になって
  毛沢東崇拝の日常を送っている。紅衛兵は「旧思想・旧文化
  ・旧風俗・旧習慣」の四旧打破をスローガンに荒れ狂い、中
  学生は担任の教師にリンチを加え、大学生は、毛沢東に批判
  的態度をとる知識人、大学教授、党幹部を広場に引っ張り出
  して吊し上げた。
        http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kizi9.html
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毛沢東元中国国家主席.jpg
毛沢東元中国国家主席
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新中国論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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