2007年03月15日

それは小さな実験からはじまった(EJ第2040号)

 所眞理雄氏によるアクノレッジング・イーサネットは1976
年に稼動しています。メトカフなどによる「イーサネットの発明
記録」がゼロックスの法務関係部局に提出されたのが1973年
6月28日のことですから、日本で1976年にイーサネットが
動いていたということは、日本の通信技術は米国に対してそう遅
れていなかったことを意味しています。
 アクノレッジング・イーサネットが具体的にどういうものであ
るかはよくわかっていませんが、メトカフのイーサネットがパケ
ットのコリジョン(衝突)の発生を不可避であるとしていたのに
対し、所氏のアクノレッジング・イーサネットは、コリジョンそ
のものを起こさないようにした点において画期的です。それは、
パケットが届いたことを即座に確認できる独自の工夫がしてある
ことにあるのです。
 所氏は、アクノレッジング・イーサネットを論文にまとめて発
表したのですが、この論文は、注目を集め、カナダのウォーター
ルー大学から客員助教授として声がかかったのです。所氏は迷わ
ず、そのチャンスを受け入れたのです。
 なぜなら、70年代後半の日本では、通信にかかわる実験は、
ほとんどやることはできなかったのです。電電公社(現NTT)
が通信に関しては他の業者にやらせなかったからです。しかし、
米国では、どのような実験も自由にすることができたので、所氏
にとっては魅力的だったのです。
 所氏は、1979年1月から1年半にわたってウォータールー
大学の計算機科学科で教鞭をとったのです。これが終わると、今
度は、カーネギーメロン大学からも客員助教授として招聘され、
80年の残りの半年間はこの大学で教鞭をとっています。そして
1981年に帰国したのです。
 慶応義塾大学に戻った所氏は、直ちに学内LANの構築に着手
したのです。そして、このLANの名前を「S&Tネット」と命
名しました。「S&T」とは、理工学部の英語名称であるサイエ
ンス&テクノロジを意味していたのです。
 このS&Tネットの構築において所氏を手伝ったのは、当時慶
応義塾大学大学院博士課程(工学研究科数理工学専攻)に在籍中
であった20代半ばの青年だったのです。この青年こそ若き日の
村井純氏なのです。村井氏は、数理工学科の斉藤信男教授の下で
研究を行っていたのです。
 S&Tネットの目的は、相磯研究室、斉藤研究室、それに計算
機センターの3ヶ所に2台ずつ設置されているミニコン――PD
P11・23をつなぐことでした。
 アクノレッジング・イーサネット・インタフェースのユニット
は、かつて相磯研究室で制作したものを使うことになったのです
が、問題はソフトウェアだったのです。UNIXには、UUCP
というネットワーク機能が付いていたのですが、LANの機能は
なかったので、自作する必要があったのです。これについて、所
氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず、LAN上で使いたいアプリケーションを特定する。電子
 メールが使いたいとか、離れた場所にあるコンピュータにログ
 インできなければいけないとか、そういうアプリケーションを
 実現することを前提にして、ソフトウェアを設計していく。今
 ならTCP/IPを使えばそれで済むわけですが、81年当時
 は現在のようなTCP/IPはありませんでしたから、ゼロか
 ら独自に設計しなければいけなかったのです。その作業で中心
 的な役割を果たしたのは村井さんです。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時相磯研究室と斉藤研究室は別の建物に入っていて、建物間
は300メートルも離れていたのです。その間を同軸ケーブルで
結んだのです。幸い地中に電線などを通す配管が埋めてあったの
で、それを利用することができたのです。
 そのうえで通信実験がはじまったのです。斉藤研究室と電話連
絡を取りながら、パケットを送るのです。うまく送れないと、村
井氏がソフトウェアを修正して、LPレコードよりも大きいディ
スクに収録して、若い助手に斉藤研究室まで走らせる――これの
繰り返しです。このように何回も繰り返して、遂にパケットを送
ることに成功したのです。
 S&Tネットが動き出したのは1981年のことであり、これ
は画期的なことだったのです。このS&Tネットについて、所氏
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1EEE(米国電気電子学会)で、イーサネットの標準規格が
 決まったのが83年、TCP/IPが実際に動き始めるのは、
 85年です。それまではアメリカもまた研究開発段階で、われ
 われ同様いろいろと試行錯誤を続けていた。そういう意味では
 日本は決してコンピュータ・ネットワークの研究開発で遅れて
 いたわけじゃなくて、81、82年当時はアメリカと肩を並べ
 るくらいの水準にあったのです。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1983年にIEEEでイーサネットが標準規格になり、所氏
のアクノレッジング・イーサネットは標準外規格となってしまっ
たのです。日本製イーサネットは一敗地にまみれるのです。
 さらに同じ年に、本格的ネットワーク機能を追加したUNIX
――カルフォルニア大学バークレー校開発によるBSDバージョ
ン4.2が登場して、米国が完全に優位に立ったのです。
 とくにソフトウェアの開発力において、日米に大きな格差が生
じたといえるのです。能力的にはともかく、人数的には完全に米
国が勝っていたのです。しかし、日本はネットワークの分野では
結構頑張っていたのです。
       ・・・ [インターネットの歴史 Part2/07]


≪画像および関連情報≫
 ・ドキュメンタリー映像作品「インターネットの夜明け」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「1981年、慶應義塾大学の研究室では小さな実験が行な
  われようとしていた」というナレーションで始まったドキュ
  メンタリー映像作品「インターネットの夜明け」の試写イベ
  ント。この作品の企画・制作を担当したヤフーとブロードバ
  ンドタワーの両社が6日、共同制作発表会を兼ねて慶應義塾
  大学で開催した。
    ――http://yoake.yahoo.co.jp/characters/index2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 05:09| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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