2013年05月09日

●「中国はトップをどう決めているか」(EJ第3542号)

 中国で共産党中央委員会の205名の中央委員になるには、2
回の差額選挙を勝ち抜く必要があります。1回目は15%が落選
する差額選挙、これで一般党員から全国代表大会代表2270名
のなかに入ることができます。
 2回目は9.3 %が落選する差額選挙、この選挙で全国代表大
会代表から中央委員会委員の205名が選出されます。ここまで
は選出メカニズムが公開されています。
 しかし、中央政治局委員の205名から25名がどのように選
出されるのかはわかっていません。選出プロセスは公開されてい
ないからです。ましてやその25名の政治局委員から政治局常務
委員の7人(胡錦濤時代は9名)がどのようにして、誰が選ぶの
か、完全にブラックボックスのなかです。
 はっきりしていることは、江沢民と胡錦濤の2人までは長老の
指名を受けて総書記になっているということです。
 張良という人の書いた『天安門文書』(文藝春秋)という本が
あります。かつての中国共産党総書記の胡燿邦と趙紫陽について
叙述しています。その訳者である山田耕介氏の「訳者あとがき」
に次の記述があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケ小平邸での四度目の八老会議を記録した・・・メモは本書の
 白眉をなす。趙紫陽後継と政治局常務委員の補充人事を決める
 会議で、公式には何の権限もない老人たちが自分の息のかかっ
 た者をそれぞれ推す世にも奇妙な場面はどうだ。江沢民登用は
 ケ小平と李先念、陳雲の三スーパー長老の事前談合で決められ
 ていて、残りのメンバーにはいわせるだけのセレモニーだった
 場面はどうだ。           ──鳥居民著/草思社
 「それでも戦争できない中国/中国共産党が恐れているもの」
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、本来何の権限もない長老が集まって、次は誰に
しようと、決めていたことがわかります。この八老会議では、ケ
小平、李先念、陳雲の3人で江沢民を総書記に指名することが決
まっていたようです。しかし、このとき既にケ小平は江沢民の次
は、胡錦濤をトップにすることを密かに決めていたのです。
 それまでの政権交代は、クーデターか前任者の失脚によって行
われてきたのです。1976年の毛沢東から華国鋒への政権交代
は、毛沢東の側近の文革の推進者である四人組逮捕というクーデ
ターの結果であったのです。
 1981年の華国鋒から胡燿邦への交代、1987年の胡燿邦
から趙紫陽への交代、1989年の趙紫陽から江沢民への交代は
いずれも前任者の失脚によるものであって、平和的な交代ではな
かったのです。
 しかし、2002年の江沢民から胡錦濤への政権委譲は、はじ
めて平和的なかたちで行われたのです。そういう意味では中国と
しては画期的なことなのです。
 しかし、江沢民は胡錦濤に対し、中央軍事委員会の主席の地位
は離さないと通告していたのです。つまり、院政を敷いたわけで
す。そのため、胡錦濤は、なかなか自分のカラーが出せずに苦労
することになるのです。
 胡錦濤総書記は、後継者の選出は一部の長老が集まって決める
というスタイルではなく、できる限り、民主的な方法で決めるよ
う努力しています。これについて、沈才彬氏は総書記選出のプロ
セスの前に行う「予備選挙」について、次のように明かしていま
す。大変貴重な情報であると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 07年10月に、第17回共産党代表大会が開催されたが、そ
 れより4ヵ月前の6月25日に党内で秘密裏に推薦選挙が行わ
 れている。推薦選挙への参加資格者は、現役の閣僚、現役の地
 方政府の首長、現役の軍高官、引退した党と国家の指導者らで
 構成され、合計400人に上る。この400人に候補者200
 人の名前が記載されたリストが配られた。200人に選ばれる
 には、中央官庁では副大臣以上、地方政府では、副省長、副市
 長以上を務めた経歴が求められる。さらに60歳以下であるこ
 とが条件となり、当然、共産党貝でなくてはならない。この推
 薦選挙で最多の推薦を得たのが習近平だった。その結果、10
 月の党代表大会で常務委員に抜擢されることが決まり、習近平
 が胡錦涛の後継者であるという空気が党内に広がった。
   ──沈才彬著/「大研究!中国共産党」/角川SSC新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、胡錦濤政権の10年間は、江沢民一派との権力闘争に終
始したのです。胡錦濤はケ小平の教えをよく守り、つねに冷静に
対応したのです。胡錦濤が国家主席になった直後の2003年3
月に中国を新型肺炎SARSが襲ったのです。しかし、その対応
は最悪で、国際的な問題になってしまったのです。
 そのとき、胡錦濤は衛生部の大臣を務めていた張文康を更迭し
ています。張文康は江沢民の元主治医で側近ですから、江沢民と
しては、内心穏やかではないはずです。しかし、このことを熟知
している胡総書記は、バランスをとるため、自分の腹心である北
京市長の孟学農にも責任を取らせたのです。
 問題は北京市長の後任人事です。もし、胡総書記が自分の派閥
である団派のだれかを任命すれば、江沢民派は黙っていないし、
江沢民の上海閥を選べば、上海閥に迎合したことになってしまい
ます。ここで、総書記が選んだのは、太子党の王岐山だったので
す。太子党は団派でも上海閥でもないのです。
 2006年に上海でまた問題が起こります。上海閥の重鎮で、
上海市書記の陳良宇が汚職によって失脚したのです。当然胡総書
記は陳を更迭したのですが、その後6ヵ月間、後任を誰も任命せ
ず、空席にして、上海市長の韓正を書記代行にしたのです。その
うえで、任命したのはまたしても太子党の習近平だったのです。
このあたりの胡錦濤の人事は、非常に巧妙であり、このように少
しずつ胡錦濤カラーを出していったのです。太子党は都合のよい
存在だったのです。        ─── [新中国論/40]

≪画像および関連情報≫
 ●陳良宇失脚!世継ぎ消滅で上海閥はお家断絶の危機
  ―――――――――――――――――――――――――――
  言うまでもありませんが、これはいわゆる「失脚」というや
  つです。陳良宇失脚。・・・上海閥の現地大番頭格で次代の
  ホープと目されていただけに、今後の指導部人事に大きな影
  響を与えることになりそうです。陳良宇はすでに中央入りを
  果たしており、中央委員ばかりでなく中央政治局委員まで兼
  任していたのですが、この2つのポストは停止扱い。「立案
  ・検断」作業が完了すれば、このうち少なくとも中央政治局
  委員を解任されるのは確実でしょう。当ブログでいう「擁胡
  同盟」(胡錦涛擁護同盟)と綱引きを繰り返してきた「反胡
  連合」(反胡錦涛諸派連合)、その「反胡連合」の主軸とも
  いうべき上海閥が次世代を仕切るべき有力者を射落とされた
  のですから、ただごとではありません。具体的にいきましょ
  う。「擁胡同盟」におけるポスト胡錦涛と目されているのが
  遼寧省のトップである李克強・遼寧省党委員会書記で、その
  ライバルとなるのが「反胡連合」の陳良宇、あるいはやはり
  上海市同様に独立王国然とした広東省のトップである張徳江
  ・広東省党委員会書記です。
  http://blog.goo.ne.jp/gokenin168/e/5532b7328ddf738c7782477574527926
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陳良宇元上海書記.jpg
陳良宇元上海書記
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新中国論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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