2013年04月17日

●「日朝交渉での実績を誇る小沢一郎」(EJ第3529号)

 小沢一郎氏は日朝交渉にも一役買っているのです。北朝鮮は核
による恫喝を繰り広げ、国際社会の顰蹙を買っており、さすがの
中国も北朝鮮に対し、不快感を表明していますが、裏では石油の
輸出を継続し、支援していることは明らかです。
 湾岸危機の渦中の1990年9月、自民・社会両党代表団によ
る訪朝が行われたのです。金日成体制下の北朝鮮訪問です。金丸
信自民党副総裁が団長で、田辺誠社会党副委員長が同行し、朝鮮
労働党、自民党、社会党の三党労働宣言が締結されたのです。
 しかし、共同宣言には、日朝の国交樹立のための政府間の交渉
を行うことに加えて、日本の植民地支配と戦後45年間の損失に
対する謝罪と償いが必要との文言が盛り込まれたことにより、日
本国内では大きな批判が巻き起こったのです。
 それよりも実はもっと大きな問題があったのです。当時北朝鮮
の核開発問題は国際問題になっていましたが、日朝間には第18
富士山丸事件が懸案事項としてあったのです。
 第18富士山丸事件とは何でしょうか。
 複雑な事件なのですが、拉致問題にも深く関係するので、わか
り易く事実を解説します。簡単にいうと、第18富士山丸事件と
は、日本の貨物船の船長と機関長が北朝鮮にスパイ容疑で拘束さ
れた事件なのです。
 第18富士山丸という船は、日朝間を交易のため往復していた
日本の冷凍貨物船なのです。1983年11月1日のことですが
富士山丸は北朝鮮の南浦港を出港した2日後に1人の朝鮮人民軍
兵士が船に乗り込んでいるのを発見し、所属会社の富士汽船と海
上保安庁に連絡し、指示を仰いだのです。
 本来であれば、密航者を連れてきた船は、密航者を元の国に送
り届ける法律上の義務があるのです。しかし、当局の指示で福岡
県北九州市門司で密航者の身柄を引き渡したのです。当局として
は取り調べて、本国に強制送還すればよいと考えたからです。
 しかし、取り調べ中にその密航兵士が日本政府への政治亡命を
申し出たので、それができなくなってしまったのです。そんなこ
ととは知らずに11月11日に富士山丸は南浦港に入港したとこ
ろ、乗組員5人が北朝鮮当局に抑留され、3人はすぐ釈放された
ものの、船長と機関長の2人は、密航の幇助及び継続的なスパイ
行為の容疑ありとして裁判にかけられ、「強化労動15年」の刑
に処せられたのです。1988年4月のことです。
 問題は、このときの日本の外務省の対応です。「国交がないか
ら民間ベースで話し合え」として国交がないことを理由にして、
何もしなかったのです。また北朝鮮の友好国などの第三国を仲介
しての解放交渉もまったく行われなかったのです。日本人の拉致
問題の対応もこれと同じであり、それを主導したのは他ならぬ自
民党政府であることを忘れてはいけないのです。
 この問題の解決に立ち上がったのは日本社会党です。1987
年に土井たか子委員長が金日成主席と会談し、「乗組員の釈放・
帰還」を強く切り出し、「政府間交渉に委ねる」との返答を得た
のです。1990年の金丸・田辺訪朝団は富士山丸の船長と機関
長の2人の解放の任務を負っていたのです。
 しかし、金丸・田辺訪朝団は、2人の釈放を実現させることが
できなかったのです。窮地に陥った金丸副総理は、平壌から小沢
幹事長に電話を入れ、訪朝を求めたのです。そのとき、小沢幹事
長は、金丸副総理に次のように念を押したといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 行くのはいいが、北朝鮮の言いなりになるわけにはいかない。
 こっちが一方的に謝って、富士山丸の2人を連れて帰るわけに
 はいかない。理不尽な要求は拒否するがそれでもいいですか。
                      ──渡辺乾介著
             『小沢一郎嫌われる伝説』/小学館
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して金丸副総理は「すべてお前に任す」と伝えたので
小沢幹事長は副幹事長と一緒に訪朝したのです。小沢氏は実務の
交渉は副幹事長にまかせ、金日成側近ナンバーワンの労働党国際
部長の金溶淳と会談を行っています。
 小沢氏が平壌に入ると、金正日配下から、極秘の連絡があった
というのです。既にそのとき北朝鮮は、金日成から金正日への権
力の移行期に入っており、すさまじい権力闘争が渦巻いていたと
小沢氏は述懐しています。しかし、これは小沢氏にとって現地入
りしないと掴めない重要な情報だったのです。
 交渉は一進一退したのですが、小沢氏は夜中に副幹事長から起
こされ、北朝鮮側は2人を返す条件として、2人が法律を破った
ことを文書にすることを要求してきたことを知らされます。
 小沢氏は即座に「自分が責任を取るから突っぱねろ」と指示し
たのです。副幹事長はその通り北朝鮮側に伝えると、北側は一転
して折れてきて、船長と機関長は1990年10月11日に帰国
したのです。
 小沢氏はこのように考えたのです。北朝鮮は旧体制と新体制の
権力抗争の渦中にあり、金日成側は小沢が金正日側と連絡を取っ
たと疑心暗鬼になっている。こういうときは、強気に出るのが一
番であるとして、要求をつっぱねたのです。同じような手法を小
沢氏は、日米保険協議でも行って成功しており、そういうやり取
りには慣れていたのです。
 さらに小沢幹事長は、2人が帰国するや、外務省に対して、核
開発疑惑をはじめ、日本人拉致問題など、日朝間の解明すべき問
題が多くあり、それが最優先であるとして、その進展がない限り
国交正常化交渉も、援助も一切やらないと通告するよう指示して
いるのです。共同宣言で謳っているので、日朝協議は数回行われ
たものの、進展がないまま中断されています。
 このように小沢一郎氏は外交交渉においてもなかなかのタフネ
ゴシエーターであり、妥協はいっさいしないのです。日本にはこ
れだけのことができるベテラン政治家が現役でいるのです。日本
では小沢氏を抹殺しようとしていますが、米中がその力を活用し
ようと考えても不思議はないのです。 ── [新中国論/27]

≪画像および関連情報≫
 ●日本と中国の首脳陣は事実上の「国交断絶」状態にある
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このような最悪事態に陥らせたのは、菅直人元首相と野田佳
  彦前首相である。これはまぎれもない事実だ。この延長線上
  に、安倍晋三首相がいる。誠に気の毒な限りである。読売新
  聞2013年2月11日付朝刊「1面」で、「内閣支持率上
  昇71%」という見出しをつけて、全国世論調査の結果を報
  じているけれど、中国から「猛毒襲来」という非常事態が生
  じているのに対して、全くお手上げ状態では、安閑とはして
  いられない。こんな「日中外交無能力」な安倍晋三内閣に高
  支持率を与えている日本国民は、どうかしている。外務省は
  「チャイナスクール」という高級外務官僚を多数抱えていな
  がら、これもまた、「無能外交官」ばかりである。中国にゴ
  マをすってきたツケが、こんな非常事態に露呈している。し
  かし、日中関係をこんなにも最悪事態に陥らせた最大責任者
  は、米国CIA対日工作者(ハーバード大学のジョセフ・ナ
  イ教授、リチャード・アーミテージ元米国務副長官、マイケ
  ル・グリーンCSIS日本部長ら)なのである。「日中離間
  工作」を最も熱心に行ってきた策士たちだ。日中関係をこじ
  らせて「戦争の危機」を煽り、日本の防衛予算を増額させよ
  うと策動して、まんまと実現させてきたのである。日本は、
  「憲法9条」により戦争できない国であるのを知っているの
  であるから、そんなに戦争したければ、「米中戦争」でも勃
  発させればよいのである。だが、軍事関係は、「日中戦争」
  に突入させる前に「寸止め」させれば回避できるけれど「猛
  毒襲来」は、そう簡単にはいかない。
             http://blogos.com/article/56008/
  ―――――――――――――――――――――――――――

金丸訪朝団/1990年9月.jpg
金丸訪朝団/1990年9月
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新中国論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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