2007年03月08日

1971年にPARCを訪れた相磯視察団(EJ第2035号)

 ARPANETがスタートした1969年の前後に日本におい
て、ネットワークに関わる研究やプロジェクトがあるかどうか調
べてみたのですが、全くないのです。その時点で日本は、大型コ
ンピュータの開発を行っているだけであり、ネットワークまでは
研究が進んでいなかったと思われます。
 ただひとつ、当時慶応義塾大学教授の相磯秀夫氏が、日本人と
してはじめて、パロアルト研究所(PARC)を訪問しているこ
とです。1971年夏のことです。
 PARCといえば、次の3人の人物が有名なのです。いずれも
ネットワークに関係があります。
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         1.ロバート・テイラー
         2.アラン・ケイ
         3.ロバート・メトカフ
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 PARCが設立されたのは1970年のことですが、初代の責
任者がロバート・テイラーです。ロバート・テイラーは、国防総
省のARPA(高等研究計画局)の中のIPTO(情報処理技術
部)の3代目の部長を務めたのです。
 IPTOは、ARPANETに取り組んだチームであり、その
3代目の部長は、まぎれもなくインターネットの開発者の一人と
いってよいでしょう。インターネットの開発者の一人として、こ
のロバート・テイラーの名前が出てくれば正解なのです。
 アラン・ケイは早くから「ダイナブック」という現在のPCの
ようなコンピュータを提唱した学者ですが、PARCには、この
「ダイナブック」がベースになって開発された「アルト」という
小型コンピュータがたくさんあったのです。
 「アルト」は小型の石油ストーブぐらいの大きさの本体の上に
ディスプレーが付き、画面は現在のウインドウズのようなGUI
――グラフィカル・ユーザ・インタフェースで、マウスまで付い
ていたのです。当時としては、信じられほど小型のコンピュータ
だったのです。
 ロバート・メトカフは、テイラーによってPARCに招聘され
た俊英の一人で、PARC内の「アルト」をつないで、LANを
構築した人物です。これがイーサネットです。メトカフはイーサ
ネットの開発者として有名です。
 70年代のPARCによって研究・開発された設計思想やテク
ノロジーは、その後のPCの開発やネットワークに大きく貢献す
ることになるのですが、これについては「ネットワークの歴史」
に詳しく書いてあります。
 1971年夏――相磯秀夫慶応義塾大学教授を団長とする視察
団――富士通、日立、NECなどの若手研究者10人はPARC
を訪問しているのです。当初のスケジュールでは、PARCに行
く予定はなかったのですが、カリフォルニア大学バークレー校に
いる相磯の友人から勧められ、PARCを視察したのです。
 そのときロバート・テイラーの指示を受けて、相磯の率いる視
察団を受け入れ、説明役を務めたのが、アラン・ケイだったので
す。そのときの模様は、滝田誠一郎著、『電脳創世記/インター
ネットにかけた男たちの軌跡』に次のように描かれています。
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 (アラン・ケイ)は、ポロシャツにスニーカーといった格好で
 現われて、今だったら別に驚くことはないですけど、そのとき
 は『何て格好してるんだ、この人は・・・』と思ったのを覚え
 ている。このとき、アラン・ケイはパソコンのプラモデルのよ
 うなものを手に持ち、『これからは、こういうパーソナル・コ
 ンピュータを使うようになる』と自信たっぷりに説明したとい
 う。また、ネットワークにつながった「アルト」の原型のよう
 なワークステーション2台を使い、ファイル転送や電子メール
 のデモを見せてくれたりもしたそうだ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 何しろ1971年の話です。これは、現代のLANそのもので
あり、LAN――すなわち、イーサネットはインターネットの重
要な部分を構成するものであり、相磯視察団は大変貴重なデモを
見たことになります。
 しかし、後に相磯教授が述懐したところによると、アラン・ケ
イのデモを実際に目にした視察団のほとんどは、それが、やがて
「オフィス・オートメーション」のようなものになるのだろうと
いう感想を持っただけで、それが現代のインターネットの原型に
なるとは誰一人として考えなかったというのです。これでは日本
が大きく遅れを取るのは当然のことだったのです。
 それでは、大型コンピュータ開発の分野で日本はどうだったの
でしょうか。
 敗戦直後の日本の電子技術は、先進国からはゆうに10年以上
遅れていたのです。そょうど、その頃米国では、世界最初のコン
ピュータ「ENIAC」が完成しているのです。これを受けて日
本でもコンピュータ開発のプロジェクトが動き出すのです。大阪
大学の城研究室、東芝と東京大学のTACプロジェクトがそれに
当たります。
 とくにTACプロジェクトは、当時のお金にして1011万円
という巨額の予算がつき、開発メンバーには当代有数の学者たち
が名を連ねて、鳴りもの入りでスタートしています。日本はよく
こういうやり方をしますが、そういうプロジェクトは成功したた
めしがないのです。
 しかし、米国のENIACからちょうど10年後の1956年
に日本で動き出したのは、「FUJIC」というコンピュータだ
ったのです。TACのメンバーではない一般企業で働くエンジニ
ア岡崎文次氏の手によって、初の国産コンピュータは開発された
のです。  ・・・ [インターネットの歴史 Part2/02]


≪画像および関連情報≫
 ・「FUJIC」とは何か
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  富士写真フイルムにおいて開発された真空管式電子計算機。
  レンズ設計に使用することを目的として岡崎文次により開発
  された.岡崎は1949年から研究を開始し,1952年3
  月からメモリ関係の研究と並行して、全体の組立てが行われ
  た.1955年11月に電子通信学会電子計算機研究専門委
  員会の見学会で,動作のデモンストレーションが行われた。
 http://www.ipsj.or.jp/katsudou/museum/computer/0110.html
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鋳AEPC.jpg

posted by 平野 浩 at 04:57| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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