2013年03月15日

●「薄熙来事件と中国の3大グループ」(EJ第3507号)

 胡錦濤前総書記は「和諧社会」を唱えて西側諸国と協調し、前
江沢民政権とは大きく異なる政権運営をしてきたのです。しかし
そこにはきわめてドロドロした権力抗争があったのです。
 2012年3月15日のことですが、次期政権のトップ9人の
なかに入ることが確実視されていた薄熙来重慶市党委員会書記が
電撃的に解任されたのです。さらに4月10日になると、中国指
導部は、薄熙来氏を党政治局員(トップ25人)からも外す決定
をしたのです。
 なぜ、中国指導部は薄熙来氏を解任したのでしょうか。それは
表面的には、重慶市の王立軍副市長兼公安局長が、2012年2
月6日に突然四川省の成都にある米国総領事館が逃げ込んで、政
治的亡命を図った責任を取らされたのです。
 このことはニュースとして大々的に報じられたので、ご存知だ
と思いますが、いったいなぜ王立軍氏は、こともあろうに米国総
領事館などに駈け込んだのでしょうか。話がきわめて複雑なので
整理してお話しすることにします。なお、この話は次の本を参考
にしています。敬称は省略します。
―――――――――――――――――――――――――――――
                  副島隆彦/石平共著
   『中国崩壊か繁栄か!?/殴り合い激論』/李白社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 2007年のことですが、薄熙来は中国共産党の高級幹部の子
弟の集まりである「太子党」の一員であり、その頃は江沢民の率
いる上海派からも支持されていたので、共産党指導部の後継人事
リストに入ることは確実視されていたのです。
 しかし、胡錦濤総書記や温家宝首相に疎んじられて、後継人事
入りはかなわず、重慶市の党委員会総書記に任命されたのです。
2007年10月のことです。このポストは重慶市のトップでは
ありますが、中央の政治局常務委員に比べると、完全に左遷人事
そのものであったのです。飛ばされたのです。
 薄熙来の代わりに後継リスト入りしたのは、上海派の習近平と
共青団(団派)の李克強氏です。習近平は国家主席、李克強は首
相候補としてです。この李克強は、若い頃小沢一郎邸に住み込み
政治の勉強をしています。
 しかし、薄熙来はあきらめなかったのです。重慶市で大きな実
績を上げ、中央に復帰すると決意して全力で取り組んだのです。
その志や良しです。
 薄熙来は、重慶市で取り組むべきテーマとして、次の2つのこ
とを取り上げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         「1」.中国黒社会の撲滅
         「2」.革命歌の普及運動
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時重慶市では、富める者と貧しい者の格差はかなり大きく、
貧しい者の不満は頂点に達していたのです。富裕層に対する恨み
を多くの人が持っていたのです。
 なぜ、そういう格差が生じたのでしょうか。
 それはケ小平元総書記の改革開放政策にあったのです。それは
社会主義を捨てて資本主義に走った結果そうなったのだと考える
人たちが多くなったのです。ケ小平の政策は誤りであり、中国は
再び正しい社会主義を取り戻す必要があると考える人たちが多く
なっていったのです。つまり、貧しくても平等であった毛沢東の
時代に戻そうという考え方です。こういう考え方をする人を「新
左派」、あるいは「左翼原理主義派」と呼ぶのです。
 薄熙来は、新左派の知識層と豊かさから取り残された労働者や
貧困層の支持を得るためには、地位を利用して富を稼ぐ不正役人
や一部の悪徳商人を撲滅する政策を推進しようとしたのです。こ
れが「1」です。
 また、毛沢東時代に戻そうという流れを利用して、革命歌(紅
歌)を歌うキャンペーンを展開したのです。これは成功し、重慶
市では新左派の勢力が強くなったのです。これは「2」です。
 「1」の推進のために昔薄熙来の部下であり、遼寧省の公安の
仕事をしていた王立軍を重慶市に呼び、副市長のポストを与え、
権限を持たせて、「悪の撲滅」の仕事をやらせたのです。薄熙来
は重慶市の警察や公安をまったく信用していなかったのです。
 重い任務を背負わされた王立軍は、いわゆる黒社会と癒着して
いる幹部を一網打尽にし、処刑していったのです。これは、重慶
市の市民から大喝采を浴びたのです。しかし、とくに地位を利用
して金儲けをしていた上海派や黒社会と癒着していた役人は王立
軍のやり方を震え上がったのです。
 しかし、薄熙来は少しやり過ぎたのです。それは、重慶市の司
法局長だった文強という人物を逮捕し、死刑に処してしまったこ
とです。この文強は共産主義青年団(共青団)の要員であり、胡
錦濤が最も信頼している汪洋という高官の腹心だったからです。
汪洋は薄熙来の前任者であり、文強処刑のときは広東省の党書記
をしていたのです。
 そのため、共青団と薄熙来との確執は最悪となり、胡錦濤前国
家主席や温家宝前首相との仲も悪化したのです。さらに上海派は
警戒心を強めたのです。上海派は金もうけ主義な地元の上海で連
携し、政治権力と民間資本を癒着させていたからです。その既得
権益の代表者が江沢民です。薄熙来の改革はこの腐敗の構造にメ
スを入れようとしたから、上海派は緊張したのです。
 このように薄熙来は、中国共産党内部では孤立しましたが、重
慶市では大変な人気を誇っていたのです。
 薄熙来の処置については、日頃は仲が悪い共青団と上海派は連
携したのです。両派とも薄熙来は邪魔な存在だったのです。王立
軍の米国総領事館駆け込みはそういうときに起こっています。
 薄熙来事件については、彼の妻の殺人容疑までからんで非常に
ややこしくなっていますが、以上で基本的な流れは理解できたと
思います。中国の動きを知るには、これらの3つの勢力について
知ることが大切なのです。      ── [新中国論/05]

≪画像および関連情報≫
 ●支配層は腐敗とは無縁という「神話」/日本経済新聞
  ―――――――――――――――――――――――――――
  共産党は過去30年間にわたり、下位の役人の間では腐敗や
  不正行為があるかもしれないが、体制を支配するのは大衆に
  仕える潔癖で無私無欲のエリートだという認識を注意深く育
  んできた。何億人もの国民を赤貧から救った中国の目覚まし
  い発展と、政府高官を取り巻く秘密主義が相まって、公正で
  慈愛に満ちた皇帝が北京から采配を振るうとするこの見方を
  大勢が受け入れた。今から1年前、中国・烏坎村の住民が地
  元の腐敗した役人に対して反乱を起こし、機動隊を相手に長
  期戦を繰り広げた時も、住民は国の指導者への永遠の忠誠を
  強調し続けた。中国各地で次々沸き起こる小規模な反乱では
  デモ参加者は必ずと言っていいほど、中国の賢明な指導者が
  地方の腐敗を知りさえすれば、「機械仕掛けの神」のように
  舞い降りて裁いてくれると信じている。今は引退しているが
  30年近く中国が専門だった西側の上級外交官はフィナンシ
  ャル・タイムズに対し、薄氏の事件を機に高級官僚も下っ端
  の役人と同じくらい汚れていることに自分もようやく気づい
  たと打ち明ける。
  http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0502P_V01C12A0000000/
  ―――――――――――――――――――――――――――

薄熙来と王立軍氏.jpg
薄熙来と王立軍氏
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 新中国論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
安倍内閣は直ちに退陣せよ

阿修羅から推敲して転載
「創価学会の池田大作氏が死去か AREA 2013年3月11日号 」
http://www.asyura2.com/13/senkyo144/msg/919.html

95. 2013年3月15日 11:51:39 : rWn9PLlcps

チャペスが死んだとき悲嘆に呉れて泣き叫ぶベネズエラの老若男女の姿が報道された。仏陀涅槃入寂図の動物も草木木石も生きとし生けるものすべてが泣き悲しむ様には及ばないが、さすがに心身のすべてを祖国のひとびとの幸福のために捧げ尽くした大慈悲身施大菩薩チャペスの入寂であったことが世界中へ明らかに示されたのである。

ひるがえって文鮮明、池田大作が死んだときにいったい誰がその死を悲しんで泣いたというのだ。

この世に生きている60億人以上のひとのうち誰一人として悲しみの涙を流した者はいないのである。

池田大作の実の息子、大作によって国会議員にまでしてもらった前原誠司すら、ほんの一瞬たりとも喪に服さず一滴の涙もこぼさなかった。

世の人々は、推して知るべし。


96. 2013年3月15日 11:57:51 : rWn9PLlcps

このたびのベネズエラ国指導者チャペス将軍の訃報に接して、国として一遍の弔意も表さない人としてのつつしみのかけらもない安倍自公連立日本国政府は、日本人としての恥の極みである。

直ちに総辞職退陣せよ。
Posted by 東行系 at 2013年03月15日 12:16
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