2013年01月16日

●「中国は尖閣を日本領と認めている」(EJ第3466号)

 後にも先にも尖閣諸島に上陸し、同島の開拓をはじめて国に申
請したのは、古賀辰四郎という日本人ただ一人です。既に述べて
いるように、尖閣諸島は日本人の政治家がよく口にする「わが国
固有の領土」ではなく、あくまで「無主の地」として先占権を主
張している立場にあるのです。
 ところで、古賀辰四郎氏とはどういう人物なのでしょうか。情
報を集めてみることにします。古賀辰四郎氏は、福岡県の農家出
身の民間人です。24歳で那覇に渡り、さまざまなビジネスで成
功し、大きな富を得ています。
 古賀氏はあるとき八重山の漁師たちから「面白い島がある」と
いう話を聞いたのです。そこで古賀氏は、その面白い島に探検に
行ったのです。そして尖閣諸島を発見し、黄尾嶼に上陸している
のです。1884年のことです。
 それから一年間、島を探検し、魚介類の採取を行い、1885
年に沖縄県令に尖閣諸島開拓を申請したのです。そのときは次の
理由で、認められなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        我那ノ所属タル事判明無之由
―――――――――――――――――――――――――――――
 尖閣諸島にはアホウドリが生息し、それは卵も含めて食用とさ
れることもありますが、とくにその羽毛に価値があったのです。
古賀氏はこのアホウドリの繁殖を保護する必要性からも、何回も
「官有地拝借御願」を出しています。そして最初の申請から10
年後に明治政府より尖閣諸島の30年分の無料貸与の認可を得て
いるのです。
 この古賀辰四郎氏と尖閣諸島での活動について、別冊宝島編集
部は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 古賀辰四郎は実際に尖閣諸島でどのような事業を行ったのか。
 現在残っている開拓に関する資料は乏しく、最初に開拓された
 のが魚釣島なのか久場島なのか、また初期の移住者も20人ほ
 どだった、という説から50名以上の大掛かりなものだったと
 いう説まで記録によってまちまちではあるが、一時期は魚釣島
 に200人以上が生活し、かなり活発な生産活動が行われてい
 たのは確かだ。30年間の無料貸与を受けた翌々年の1898
 年には、自ら調査、開拓を進めながら、さらに大阪商船の須磨
 丸を寄港させ、男女の労働者数十名を移住させている。その後
 も交代要員なども含め次々と労働者の移住を進行。1900年
 には、古賀村と通称される村を形成するまでになった。
   ──「ニッポン人なら読んでおきたい竹島尖閣諸島の本」
                     別冊宝島編集部編
―――――――――――――――――――――――――――――
 1896年に国から認可をもらってから、1918年までに古
賀家の相当の人数が、尖閣諸島に住んでいたことは確かなことな
のです。したがって、もし尖閣諸島が「無主の地」であるという
立場に立つなら、古賀家の島への定住の事実は、同島に対する日
本の先占権を相当強いものにするはずです。
 この時期にもうひとつ日本にとって有利な事実があるのです。
それは、1919年のことです。古賀辰四郎氏はその前年に亡く
なっており、息子の善次氏が家業を継ぎ、魚釣島に定住していた
のです。
 中国福建省の漁民31人が魚釣島近海で遭難したのです。これ
を古賀善次氏が発見、八重山県庁、石垣島村役場の人々にも応援
を頼んで、漁民全員を救助し、中国まで送ったのです。
 この行動に対し、中国は長崎に駐在していた中国領事に命じて
石垣村村長・豊川善佐、古賀善次両氏に感謝状を贈っているので
す。感謝状の全文は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 中華民国8年冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人
 が、強風のため遭難し、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内
 和洋島に漂着した。日本帝国八重山郡石垣村の玉代勢孫伴氏
 の熱心な救援活動により、彼らを祖国へ生還させた。救援に
 おいて仁をもっで進んで行ったことに深く敬服し、ここに本
 状をもって謝意を表す。    中華民国駐長崎領事 馮冤
                 中華民国9年5月20日
     ──石平著『尖閣問題。真実のすべて』/海竜社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注目すべきことは、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島
内和洋島」の部分です。これは紛れもなく尖閣諸島が日本領であ
ることを認めている記述です。日本政府が尖閣諸島に標杭を建設
したのは1895年1月、日清戦争で日本が勝利したのは同年3
月、それから24年後に中国漁民の尖閣諸島での遭難事件は起き
ているのです。そのときは、中国は尖閣諸島を日本領と認めてい
たことになります。
 もうひとつ重要な証拠があります。1953年1月8日、中国
共産党機関紙「人民日報」に「琉球諸島における人々の米国占領
反対の戦い」と題する記事が載ったのです。ここには「琉球諸島
は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる」と書いてあるのです。
 つまり、尖閣諸島は沖縄が有する島嶼のひとつであることを中
国共産党の機関紙である「人民日報」が書いているのです。これ
は尖閣諸島が日本領であることを意味しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 琉球諸島は、我が国(注・・中国、以下同様)の台湾東北部お
 よび日本の九州南西部の間の海上に散在しており、尖閣諸島、
 先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅
 諸島の7組の島嶼からなる。それぞれが大小多くの島嶼からな
 り、合計50以上の名のある島嶼と400あまりの無名の小島
 からなり、全陸地面積は4670平方キロである。
                  ──石平著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
                 ―─ [日本の領土/70]

≪画像および関連情報≫
 ●古賀辰四郎による開拓が始まる/尖閣ライブラリ・ブログ
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  明治17(1884)年頃から尖閣諸島で漁業等に従事して
  いた沖縄県在住の民間人、古賀氏から国有地借用願が出され
  明治29(1896)年に、明治政府は、4島を30年の期
  限で古賀辰四郎に貸与することを許可した。古賀辰四郎氏は
  この政府の許可に基づいて、尖閣諸島に移民を送り、羽毛の
  採集、鰹節の製造、珊瑚の採集、牧畜、缶詰製造、憐鉱鳥糞
  の採掘等の事業を経営した。このように、明治政府が尖閣諸
  島の利用について、個人に許可を与え、許可を受けた者がこ
  れに基づいて同諸島において公然と事業活動を行うことがで
  きたという事実は、同諸島に対する日本の有効な支配を示す
  ものである。
  http://blog.goo.ne.jp/hm-library/e/7112e9a89fee3e7ea474f8fa71ee7b4c
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中国からの感謝状と古賀辰四郎氏.jpg
中国からの感謝状と古賀 辰四郎氏

posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の領土 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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